さて、今回は久しぶりの番外編です。
きっかけは単純で、#7を執筆中にたまたま「飛鳥・藤原の宮都」が世界遺産に登録された、というニュース(2026年7月26日、国内27件目)を見つけたことでした。せっかくだし触れてみるか、くらいの軽い気持ちで、参考論文を探し始めたのがことの始まりです。
ただ、実際に3本の論文(滝沢正・黒田達也・重見泰)を読み進めていくうちに、あれ、これ#7でやった話と繋がるじゃないか、と気づいてしまいました。「後発文明が先進文明の制度を取り込んで、自分たちの国を作り上げていく」——西ゴート王国のローマ法継受や北魏孝文帝の漢化政策で見てきたパターンが、実は飛鳥・藤原時代の日本にもそっくりそのまま当てはまっていたのです。
「日本もまた継承者だった」という視点自体は、なんとなく#7を書いている段階でうっすら頭の片隅にあった気がします。でも、それがはっきり形になったのは、今回この論文たちを読んでからでした。
というわけで今回は珍しく日本史回です。参考論文も日本史3本、正直まったく毛色の違う分野なので、いつも以上に手探りで書いています。
① 律令継受という「もう一つのゲルマン化」
まず、飛鳥・藤原時代の日本で何が起きていたのか、大枠から確認していきたい。
7世紀、日本は中国(隋・唐)から「律令」という統治システムをまるごと輸入した。この動き自体は世界史の教科書にも書いてある話だが、今回読んだ滝沢正の論文は、この出来事をもっと大きな枠組みで捉え直していて、これがなかなか面白い。
滝沢によれば、日本法の歴史は大きく三段階に分けられる。文字も持たず、宗教・習俗と法が未分化だった「固有法の時代」(文字文化自体、漢字伝来を待つことになる)。そこに中国から律令を取り入れた「中国法継受の時代」。そして明治期、西欧法を取り入れた「西欧法継受の時代」だ。つまり日本は歴史上、二度、外国の法体系をまるごと取り込むという大転換を経験している※1。
これ、#7で見た構図とほとんど同じである。西ゴート王国はローマ法を、北魏はさらに徹底して漢の統治システムそのものを取り込んだ。自分たちにはまだない、あるいは自分たちより優れていると当事者たちが判断した他文明の制度を、丸ごと輸入することで自分たちの国を作り上げる——このパターンは、ヨーロッパでも東アジアでも、時代を超えて繰り返されているらしい。もちろんこれは、あくまで当事者たちがそう判断したというだけの話であって、輸入元の文明の方が客観的に優れていた、ということを意味するわけではない。
ただし、日本のケースには一つ大きな違いがある。西ゴート族や鮮卑(北魏)は、征服者としてローマ・漢の土地に乗り込んでいって、そこで初めて先進文明の制度と出会った。一方、日本は誰かを征服したわけではない。遣隋使・遣唐使を送り、自分から進んで先進文明の制度を学びに行っている※2。征服による強制的な接触ではなく、自発的な継受だったという点は、ゲルマン諸王国のパターンとは明確に異なる。
もう一つ、面白い対比がある。中国では、王朝が交代するたびに律令を新しく制定し直す。これに対して日本では、実際に政治を動かす実力者(貴族、そして武士)が何度も入れ替わったにもかかわらず、律令を定めた天皇制そのものは存続し続けた。律令は一度も正式に廃止されないまま、その適用範囲だけがどんどん狭くなっていき、最終的には公家社会の内部だけで意味を持つ、有名無実の存在になっていく※3。
ここで気になるのは、なぜそうなったのかだ。武家政権(源頼朝以降)が力を持った時点で、律令だけでなく天皇制そのものを廃止するという選択肢もあったはずである。しかし日本の武士たちは、天皇を廃絶して自分たちで新たに権威を作り出すのではなく、既にある天皇の権威をそのまま利用する方を選び続けた。ゼロから権威を立ち上げるより、既存の権威に乗っかる方が実利的だった、ということなのだろう。だからこそ律令も——実質的な効力をほとんど失いながらも——天皇制と一緒に生き延び、明治維新の「王政復古」で太政官制や律が息を吹き返す、という形で1000年以上先まで命脈を保つことになる。
これは#7でも触れた、フランク王国の宮宰たちの話とよく似ている。実権はどんどん宮宰(後のカロリング家)に移っていったが、メロヴィング家の血統そのものは長い間廃絶されなかった。ただし#7でも指摘した通り、フランク王国では最終的に血統ごと乗っ取られてしまう(カロリング家による簒奪)のに対し、日本の天皇制は血統を絶やさないまま今日まで続いている、という違いがある。「既存の権威を利用する」という発想自体はどちらの社会にも共通するが、最終的にその権威そのものを乗り換えるか、乗り換えずに使い続けるか——ここで両者の道が分かれている点は、他国にはあまり見られない、日本独自の文脈として押さえておきたい。
滝沢はこの日本の継受のあり方を「採長補短主義」——各国の良いところだけを選んで取り入れる、折衷的な手法——と呼んでいる。実際、明治期の西欧法継受でも、フランス法・ドイツ法・アメリカ法のいいとこ取りをしながら、最終的に独自の法体系を作り上げていった。これは律令継受の時にも既に発揮されていた、日本の「才覚」だったのかもしれない※4。
② 崇仏論争、正直よくわからなかった話
続いて、仏教を巡る「崇仏論争」の話に移りたい。
まず簡単に背景を確認しておく。仏教はもともとインドで生まれ、シルクロードを通じて中国に伝わり(1世紀頃)、そこから朝鮮半島の三国(高句麗・百済・新羅)にも広まっていった(4世紀後半頃)。日本への仏教伝来は、この東アジア全体に広がっていく仏教伝播の、いわば最終ランナーにあたる。
そして538年(あるいは552年、諸説ある)、百済から日本の朝廷に仏像・経典が正式に贈られた。これをきっかけに、仏教という新しい信仰・文化を国として受け入れるべきかどうかを巡って、朝廷が二分された、というのが「崇仏論争」だ。蘇我氏は受け入れを主張し(親仏派)、物部氏・中臣氏は反対した(排仏派)——というのが教科書的な説明である。
正直に告白すると、今回読んだ黒田達也の論文、かなり難しかった。『日本書紀』の細かい年次の記述を丹念に追いながら組み立てられた論証で、正直、読み込んでもすべてを理解しきれた自信はない。なので、ここでは論文の緻密な論証過程は諦めて、結論部分だけをかいつまんで紹介したい。
黒田の見立てはこうだ。崇仏論争は、実は「仏教という新しい宗教を受け入れるかどうか」という単純な宗教論争ではなかったのではないか、と。
その根拠として面白いのが、排仏派(物部・中臣)が実際に何を壊したか、という点だ。彼らが焼き捨てたのは、百済から贈られた「仏像」だけだった。同じ時期に日本国内で作られた仏像や、新羅から贈られた仏像には手を出していない。しかも、仏教の教え(経典)や、それを広める僧侶にも、ほとんど攻撃していないという※5。
もし本当に「仏教という異国の宗教そのもの」が嫌だったなら、出どころに関係なく、仏像も経典も僧侶も、まとめて排斥するはずである。しかし実際に狙われたのは、「百済から来た」仏像だけだった。
ここから黒田は、崇仏論争の裏には、当時の朝鮮半島情勢——特に「百済とどこまで親密になるべきか」という外交路線の対立があったのではないか、と推測する。蘇我氏は親百済路線を推し進めたい勢力、物部・中臣氏はそれに慎重な勢力。仏教はその対立の中に、たまたま巻き込まれた「代理戦争」の材料だった、というわけだ※6。
正直、この結論に至るまでの論証(『日本書紀』の年代記述を一つひとつ突き合わせていく手法)はかなり専門的で、素人には全部は追いきれなかった。ただ、「宗教対立に見える出来事の裏に、実は別の政治的対立が隠れている」という見方自体は、#7でも似たような話があったのを思い出す。ゲルマン諸王国のアリウス派(異端とされたキリスト教の一派)を巡る対立も、単なる教義論争というより、部族間の政治的な立ち位置と密接に結びついていた。宗教が政治の道具として使われる、あるいは政治対立が宗教という形を借りて記録される、というのは、時代や地域を問わず起きることなのかもしれない。
③ 藤原京、権威づけとしての首都建設
最後に、都そのものの話に移りたい。今回世界遺産に登録された「飛鳥・藤原の宮都」——その中心にあるのが藤原京だ。
藤原京は694年に完成した、日本で最初の本格的な条坊制都城(碁盤の目状に区画整備された計画都市)である。この藤原京についても、実は正直に言っておかなければならないことがある。今回読んだ重見泰の論文は、全8章・脚注109個におよぶ、宮殿の発掘遺構をめぐる相当に専門的な考古学論文で、正直、全部を読み切れていない。今回は「はじめに」と結論部分にあたる章だけを、そのままの言葉で紹介したい。
重見の結論はこうだ。藤原京は、天皇を頂点とする支配体系を国内向けに象徴する構造としては、よく完成されていた。しかし、対外的に国家の威容を誇示する構造としては、実は不十分だった、というのだ。
その理由が面白い。藤原京は周囲を山に囲まれた盆地に位置しており、地形的な制約から、儀式のための巨大な広場や、都の正門にあたる大規模な門(羅城門)を造ることができなかった。儀式空間は、天皇の宮殿の内部だけに限られていたという。
ところが、701年に大宝律令が完成し(それまでの段階的な律令整備の集大成である)、翌702年、約30年ぶりに遣唐使が再開されると、唐の都・長安城で行われている壮大な国家儀礼の様子が日本にも伝わってくる。ここで初めて、「これでは足りない」という危機感が生まれたらしい。そして710年、次の都・平城京では、儀式のための巨大な広場(朱雀大路)を都全体に組み込む形で、対外的に国家の威容を見せつける設計に作り変えられた※7。
つまり藤原京は、「国内向けの権威づけ」としては完成していたが、実際に唐という当時最大級の大国のスケール感を目の当たりにしたことで、「国際的にはまだ足りない」という自覚が生まれ、平城京へと作り変えられていった、ということになる。①で見た律令継受と同じように、ここでも「他の文明の在り方に接して、それに合わせて自分たちのやり方を作り変えていく」というプロセスが繰り返されているわけだ。
まとめ
今回は番外編ということで、いつもとは毛色の違う日本史の話を扱った。参考論文3本(滝沢正・黒田達也・重見泰)、正直に言うと、②崇仏論争と③藤原京の2本は、専門性の高さゆえに全部を理解しきれず、結論部分だけをつまみ食いする形になってしまった。それでも、①律令継受の話を軸に見えてきたものは、はっきりしていたように思う。
日本もまた、「継承者」だった。
西ゴート王国がローマ法を、北魏がさらに徹底して漢の統治システムを取り込んでいったように、日本もまた中国から律令という統治システムをまるごと取り込んで、自分たちの国の形を作り上げていった。ただし、征服者として乗り込んでいったゲルマン諸王国とは違い、日本の場合は自分から使者を送り、自発的に学びに行っている、という点は独自の在り方だった。
そして、天皇制の存続という日本独自の選択もあった。武士たちは天皇の権威を廃するのではなく、それを利用する道を選び続けた。フランク王国の宮宰たちが最終的に王家の血統ごと乗っ取ってしまったのとは対照的に、日本は権威の中身(天皇の血統)はそのままに、その周りで実権だけを回し続けるという、独特のやり方を今日まで続けている。
崇仏論争、藤原京の話も、大枠でいえば同じテーマの変奏だったように思う。宗教という形を借りた政治対立、そして他の文明の在り方に触れて自分たちのやり方を作り変えていく過程——これらはすべて、「他から学び、取り込み、自分たちの形に作り変えていく」という、この番外編を通じて見えてきた大きな流れの中にある。
#7で見たローマとゲルマンの関係、そして今回見た中国と日本の関係。地域も時代も違うのに、驚くほど似た構図が繰り返されている。次はいよいよ本編に戻って、#8カール大帝編に進んでいく。
※1 滝沢正「比較法学からみた日本法のアイデンティティ」(早稲田大学比較法研究所、以下「滝沢論文」)、「Ⅱ 特徴その1:法形成の転機としての外国法継受」による。↩
※2 滝沢論文、「Ⅱ 特徴その1:法形成の転機としての外国法継受」による。↩
※3 滝沢論文、「Ⅱ 特徴その1:法形成の転機としての外国法継受」による。↩
※4 滝沢論文、「Ⅲ 特徴その2:西欧法継受における比較法的法典編纂」による(「採長補短主義」の語)。↩
※5 黒田達也「『崇仏論争』についての一試論——物部氏の役割をめぐって——」(大阪府立工業高等専門学校紀要、以下「黒田論文」)、「3.『崇仏論争』について」による。↩
※6 黒田論文、「2.『崇仏論争』関係記事の位置づけについて」および「4.むすび」による。↩
※7 重見泰「律令制都城の形成」(奈良県立橿原考古学研究所紀要 考古学論攷第41冊、2018年、以下「重見論文」)、「Ⅷ.藤原宮から平城宮へ」による。なお本稿では重見論文の全8章のうち「Ⅰ.はじめに」「Ⅷ.藤原宮から平城宮へ」の2章のみを参照している。↩