前回、わたしたちは西ローマ帝国の崩壊とゲルマン諸王国の誕生を追いかけた。滅んだのではなく、継承された——そういう話だった。
その継承者たちの中で、最終的に一番デカい顔をすることになるのが、今回の主役、フランク王国である。特にその絶頂期を築いたカール大帝。世界史の教科書を開けば必ず載っている、あの「西ヨーロッパの父」と呼ばれる人物だ。
だが今回、カール大帝関連の論文を3本読んで、正直かなり印象が変わった。800年のクリスマス、カールはローマで皇帝の冠を受ける。世界史的にはこれが「西ヨーロッパの誕生」を告げる大事件、ということになっている。
ところが同じ頃、遥か東方のバグダードでは、アッバース朝という桁違いの経済大国が繁栄していた。カールの元にも使節と象が送られてきているのだが、当のバグダードから見れば、フランク王国など数ある辺境勢力の一つ、カールに至っては「遠方の蛮族の一君主」程度の扱いだったらしい。
つまりこの「西ヨーロッパの父」、当時の世界地図の中で見ると、実はかなり隅っこの、しかも弱い方のプレイヤーだったのである。今回はその「周縁国としてのフランク王国」という視点を軸に、800年前後の出来事を見ていきたい。
- #6 異民族編
- #7 ゲルマン諸王国編
- #8 フランク王国編(この記事)
- #9 アングロサクソン編
カール大帝 関連年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 751 | 小ピピン、フランク王に即位(カロリング朝開始) |
| 754〜775 | マンスール、アッバース朝カリフに在位(フランクとの最初の使節交換) |
| 768 | カール、フランク王に即位 |
| 774 | カール、ランゴバルド王国を征服 |
| 781頃 | 教皇ハドリアヌス1世、公文書からビザンツ皇帝の在位年表記をやめる |
| 786〜809 | ハールーン・アッラシード、アッバース朝カリフに在位(象の逸話はこの間) |
| 795 | レオ3世、教皇に即位 |
| 797〜802 | エイレーネー(イレーネ)、ビザンツ女帝として単独在位 |
| 799 | レオ3世、暗殺未遂に近い襲撃を受けフランクへ逃亡 |
| 800 | 12月25日、カール、ローマで皇帝戴冠 |
| 802 | 「一般勅令」発布(カールをimperatorと呼ぶ一方、王国はregnumと表記) |
| 806 | 「王国分割令」(帝国の将来を三分国に分ける構想) |
| 814 | カール大帝没 |
| 817 | ルイ敬虔帝、「帝国計画令」発布 |
| 829 | パリ教会会議(「教会」概念の二重の用法が確認される) |
| 840 | ルイ敬虔帝没、息子たちの内乱(兄弟戦争)へ |
| 843 | ヴェルダン条約(帝国三分割)/クレーヌ協約(西フランク) |
① 「王国」とは何だったのか
本題に入る前に、そもそも「王国」とは何だったのか、という話をしておかなければならない。
われわれは無意識のうちに「国」というものを、はっきりした国境と、決まった国民と、統一されたルールを持つもの、として理解している。だが、この時代の「王国」——ラテン語でregnum——は、そんなに固いものではなかった※1。
regnumという単語は、動詞regere(統治する)の語幹に、抽象名詞をつくる語尾-numがついてできた言葉で、直訳すれば「統治すること」「統治の及ぶ範囲」に近い。つまり最初から「統治という行為・機能」を指す言葉だったわけだ。
このregnumをめぐって、ドイツの中世史家の間で長く論争が続いている。
一人はヨハネス・フリート。カール大帝研究の第一人者として知られるドイツの歴史学者だ。フリートは「regnumは理論立てて考え抜かれた概念ではなく、単に『国王が支配している』という、当時の人々が漠然と使っていた前理論的な言葉にすぎない」と主張する※2。フリートによれば、この時代の統合原理として本当に機能していたのは「王国」ではなく、「教会」——つまり同じキリスト教徒であることを根拠にした結びつきだった。
もう一人はハンス・ヴェルナー・ゲッツ。同じくドイツの中世史家で、年代記だけでなく聖人伝にまで史料を広げ、当時の人々が実際に「regnum」という言葉をどう使っていたかを丹念に洗い出した。見えてきたのは、regnumが①特定の民族(ゲンス)と結びつく、②領域性を持つ、③その時々の君主と結びつく、という3つの性格を備えた、れっきとした「制度」だったという像である※3。ゲッツに言わせれば、フリートが重視する「教会」や「王家」といった概念は、当時の政治秩序を語る言葉としてはほとんど意味を持たなかった。
フリートはこう反論する——ゲッツは当時の人々の意識を探ろうとして、実は無自覚のうちに、自分の時代の「国家」概念を過去に持ち込んでしまっているのではないか、と※4。
| ヨハネス・フリート | ハンス・ヴェルナー・ゲッツ | |
|---|---|---|
| regnumの位置づけ | 前理論的な言葉。国王支配の延長にすぎず、「制度」と呼べるほどのものではない | 民族・領域性・君主との結びつきを備えた、れっきとした「制度」 |
| 時代の統合原理 | 「教会」(同じキリスト教徒であることへの帰属意識) | 「教会」も「王家」も、政治秩序を語る言葉としてはほとんど意味を持たない |
| 方法論 | 理論的な概念分析(「王国」に何が欠けているかを論じる) | 年代記・聖人伝の実際の用例を丹念に収集(帰納的アプローチ) |
| 相手への批判 | ゲッツは無自覚に、現代の「国家」概念を過去へ投影している | (フリートへの直接反論は史料からの積み上げで対抗) |
この対立に決着をつけるべく、論文の著者・五十嵐修は史料をさらに掘り下げていく。
まず確認されるのは、「教会」と「王国」が同じものではなかったという事実だ。カロリング朝初期の君主たちはたしかにキリスト教にもとづく統治を志したし、王権は教会に対して強い影響力をふるった。だが制度としての教会は常に「王国」を越えた存在であり、国王が教会組織の中心に立つという事態には至らなかった。829年のパリ教会会議の記録などを見ても、「教会」と「国家」は最後まで別の概念として扱われている※5。
もう一つの重要な手がかりが、843年に西フランクで結ばれたクレーヌ協約である。国王が一方的に恩恵を与えるのではなく、国王と諸侯が互いに義務を負い合う、契約に近い関係を明文化した文書だ※6。似た発想は400年近く後のイギリスでも登場する。1215年、王の権力を法で縛ることを明文化したマグナ・カルタである。系譜として直接つながっているわけではないが、「王権と貴族の関係を、力ずくではなく合意の形で定める」という発想の先駆けとして、研究史上よく引き合いに出される文書だ。
クレーヌ協約が示しているのは、国王が諸侯に「名誉」(地位・所領の保証)を与え、諸侯はその見返りに「助言と援助」を差し出す、という双務的な関係——日本の武家社会でいう「御恩と奉公」に近い構造である。regnumという政治共同体の正当性は、血統や神の意志だけでなく、この協約への合意そのものに支えられていた※7。
そしてこの合意を実際に機能させていたのが、頻繁に開かれる王国会議である。国王が普段は遠く離れた地域を任せている諸侯たちと顔を合わせ、勅令の内容を確定していく——年に複数回、こうした場が設けられていたことが史料から確認できる※8。これほど「会議」を重視する姿勢の背景には、もしかすると、かつてこの地を治めていたローマの統治のあり方——元老院や属州統治の仕組み——が、意識的にせよ無意識にせよ、どこかで参照されていたのかもしれない。あくまで一つの見立てにすぎないが。
こうした具体的な仕組みの積み重ねを見れば、regnumが実体を伴った政治共同体だったことは明らかだ、と五十嵐は結論づける。フリートの言う「regnumは国王支配の延長にすぎない」という見立てには、根拠がないことになる※9。
ただしregnumには一つ弱点があった。それは国王という個人の存在に強く依存していたことだ。王位継承者がいなくなれば、その共同体はあっさり崩壊する。実際、カール大帝が一代で築き上げたフランク王国も、彼の孫の代にはあっけなく瓦解してしまう。
その理由を考えるうえで避けて通れないのが、次に見る「帝国」という、regnum以上に輪郭の定まっていない概念である。
② 800年のクリスマス——皇帝戴冠は何を変えたのか
②-1 皇帝戴冠の背景——ローマ教皇座の事情
800年12月25日、ローマで一つの事件が起きる。教皇レオ3世が、フランク王カールの頭に皇帝の冠を授けたのだ。世界史上、これほど有名な戴冠式もそうそうない。だが、この出来事が実際に何を意味していたのかは、当事者たちの間でもかなり食い違っていたらしい。
まず教皇座の側の事情から見ていく。774年、カールはランゴバルド王国を征服した。ランゴバルド王国は、6世紀後半にイタリア半島北部に入植したゲルマン系の一派が建てた王国で、以来200年ほど、ローマ教皇領の目と鼻の先に居座り続ける、教皇座にとって厄介な隣人だった。この征服を経て、カールは「フランク人の王にして、ランゴバルト王、そしてローマ人のパトリキウス」を名乗るようになる※10。パトリキウスとは、もともとビザンツ皇帝が高位の廷臣に与える名誉称号で、意味合いとしては今でいう「パトロン」——後ろ盾・保護者——に近い。実効支配を伴う地位ではなく、あくまで「ローマを守ってやる立場」という程度のものだった。
8世紀半ばまで、教皇の発する公式文書には、ビザンツ皇帝の在位年が記されるのが慣例だった。それが教皇ハドリアヌス1世の時代になると、この慣行は姿を消す。ビザンツとの決別、そしてフランクの支配下にも入っていないという、教皇座なりの政治的自立の意思表示だったと見られている※11。
だが次の教皇レオ3世は、この立場を放棄する。レオは即位早々、ローマの反対派貴族から激しく敵視され、799年には暗殺未遂に近い襲撃まで受けている。権力基盤の弱かったレオは、自分の後ろ盾としてカールの威光を必要とした。そこでレオは、自分の発給する文書に、今度はカールの——皇帝としての——在位年だけを記すようになる。貨幣の鋳造権という、当時もっとも重要な統治者の特権の一つも、レオはカールに明け渡した。ローマにおける教皇座の世俗的な権限を、事実上カールへ譲り渡していったわけである※12。
②-2 フランク宮廷は「皇帝」をどう受け止めたか
一方のフランク宮廷側は、この「皇帝」という称号をどう受け止めていたのか。
興味深いのは、カールが戴冠後も「ローマ皇帝」を単純に名乗らなかったことだ。実際に採用されたのは、おおよそ「神によって戴冠された、偉大にして平和をもたらす皇帝、ローマ帝国を統治する者、そして神の憐れみによりフランク人とランゴバルド人の王でもある者」といった意味の、やたらと長く、既存の王号をそのまま引きずった称号だった※13。
背景には、宮廷の学僧アルクィンの存在がある。ヨーク(現在のイギリス)出身の神学者で、カールに招かれてフランク宮廷の教育・文化改革を主導した、いわば当時のブレーンだ。アルクィンらが唱えていた「キリスト教帝国」という理念のもとでは、「帝国」という言葉はかつてのローマ帝国と直結するものではなく、かなり柔軟に捉えられていた。むしろカールは、「ローマ皇帝」と名乗ることで、西ローマ帝国の単純な「再興」だと誤解されることを警戒していたようだ※14。
事実、カールは戴冠後も変わらず「フランク国王」であり「ランゴバルト人の王」であり続けた。これは中華圏の発想とはかなり違う。中華圏では皇帝は唯一絶対の存在であり、同一人物が複数の「王」を名乗るという発想自体が基本的にない。対してフランクでは、征服した地域の王位を、そのまま自分の肩書として積み重ねていく。この「複数の王位を一人が兼ねる」という発想は、この後もヨーロッパ世界でずっと続いていくことになる(このあたり、いずれ別の回で扱うことになりそうだ)。
フランク宮廷は、新しい帝国理念を打ち立てて確立しようとするのではなく、ローマ・イタリアの旧来の慣行をできる限り踏襲し、対立を避けながら、この「政治的妥協の産物」としての帝位を、あいまいな形のまま受け入れようとしたように見える※15。
②-3 ビザンツから見た戴冠——「返礼」程度の出来事
まず前提として、初期キリスト教世界には、ローマ・コンスタンティノープル・アレクサンドリア・アンティオキア・イエルサレムという5つの総大司教座(いわゆる「五本山」)が並び立っていた。だが7世紀以降、イスラーム勢力の拡大でこのうち3つが事実上その支配下に入り、対等な地位を保っていたのはローマとコンスタンティノープルの2つだけになっていた。つまりビザンツにとって、西方は本来「対等に張り合うべき、もう一つのキリスト教世界の中心」だったはずなのだ。
ところがビザンツの年代記作者テオファネス(証聖者テオファネス、760年頃〜818年)は、カールの皇帝戴冠を「教皇による返礼」として記録している。曰く、レオが政敵に襲撃されフランクに保護を求めた恩義に報いるため、教皇が独断で——しかも本来はビザンツ皇帝の臣下にすぎないはずの立場で——軽率に戴冠を思いついた、という書きぶりだ※16。ビザンツにとって戴冠は、まっとうな政治的事件というより、教皇の個人的な「お礼」程度の扱いにすぎなかったわけである。加えて当時のビザンツは、女帝エイレーネー(イレーネ)の治世下で内政の混乱と対外的な圧力(イスラーム勢力の拡大など)を抱えており、率直に言って西方の出来事にかまっている余裕がなかった、というのが実情に近い。そのためフランク側もビザンツを刺激しないよう慎重に立ち回り、結果として戴冠は、少なくとも当初は、両者の間で大きな政治問題にはならなかった※17。
②-4 「同床異夢」の戴冠式
こうして見えてくるのは、同じ一つの戴冠式を、教皇は「後ろ盾の確保」として、フランク宮廷は「これまでの延長線上にある、あいまいな妥協」として、ビザンツは「取るに足らない出来事」として、それぞれ全く別の角度から眺めていたという構図である。
これは現代のビジネスの場面でもよくあることかもしれない。ある一つの出来事——契約、発表、決定——を、関わるステークホルダー(利害関係者)の誰もが同じように解釈するとは限らない。それぞれの立場・利害・タイミングによって、同じ行為の意味はまるで違って見える。800年のクリスマスに起きたのも、まさにそういう種類の「すれ違い」だった。
そしてこの「帝国」概念の煮え切らなさは、単に戴冠式の解釈がバラバラだった、という話にとどまらない。フランク宮廷自身、アルクィンの唱えた「キリスト教帝国」という理念を、政治理論として明確に組み立てることをしなかった。それどころか、従来の「フランク=ランゴバルド王国」を明確に「ローマ帝国」として再編しようという行動さえ起こさなかった※18。つまり「王国」を超える独立した制度・理念として「帝国」を打ち立てることを、フランク宮廷はあえて選ばなかったのである。①で見たregnumの弱さ(国王個人への依存)に、この「帝国概念の曖昧さを自ら手放さなかったこと」が重なったことこそが——五十嵐修が示唆するように——カールの死後、彼の帝国が急速に瓦解していく遠因になったのではないか、というのがこの時代を見るうえでの一つの重要な視点になる。
③ バグダードから見たフランク王国
③-1 使節交換の実像
さて、ここまで見てきたのは、あくまでヨーロッパ側から見た「帝国」の物語である。だが同じ時代、遥か東方には、フランクとは比較にならない規模の大国が存在した。アッバース朝——首都バグダードを中心に、シルクロードとインド洋交易路の両方を押さえる、当時の世界経済の中心地の一つである。
フランクとアッバース朝の使節交換の記録は、意外と古くからある。最初に登場するのは、カールの父・小ピピン(在位751-768年)と、アッバース朝のカリフ・マンスール(在位754-775年)の時代だ※19。そしてカール大帝の時代になると、やりとりはより頻繁かつ詳細に記録されるようになる。よく知られているのが、カリフ・ハールーン・アッラシードからカールへ贈られた象——名前がついていたと伝わる——の逸話だ。当時のヨーロッパに生息していない象は、フランク人にとってまさに未知の巨獣であり、カールが晩年の拠点としたアーヘン(現在のドイツ西部、ベルギー・オランダ国境近く)の宮廷に、驚きをもって迎えられた様子が『フランク王国年代記』に記録されている※20。
では、この使節交換の目的は何だったのか。古くからある見方は「対ビザンツ・対後ウマイヤ朝を見据えた軍事同盟」というものだ。後ウマイヤ朝とは、750年のアッバース革命でアッバース家に打倒されたウマイヤ朝の生き残りが、756年にイベリア半島で建てた王朝で、アッバース朝にとっては明確な政敵だった。フランクにとってビザンツは、対抗意識を燃やしながらも刺激を避け続けた相手であり、「敵の敵は味方」という発想自体は理解できる。だが実際には、両国とビザンツ・後ウマイヤ朝との関係は絶えず変化しており、具体的な軍事作戦がすり合わされた形跡は見当たらない。むしろ有力視されているのは、聖地エルサレムのキリスト教会・巡礼路の保護をめぐる交渉だったのではないか、という説である※21。
③-2 「フランクは重要なパートナーだった」という思い込み
ここで著者の津田拓郎が強く指摘するのが、フランク王国とアッバース朝の使節交換は、フランク王国側の史料にしか記録が残っていない、という非対称性である。ビザンツ側にも、イスラーム側にも、この出来事に触れた記録はほとんど見当たらない。もしアッバース朝がフランクを「重要な軍事同盟のパートナー」とみなしていたなら、これは不自然だ※22。
先行研究の中には、この使節交換をやたらと重視し、カールを「グローバル・プレーヤーとしてアラブ人に劣らない存在だった」とまで持ち上げる記述も見られる。だが著者はこうした評価に対して、かなり手厳しい。数少ない例外を除けば、当時のイスラーム史家がフランク王国について言及すること自体、ほとんどなかったからだ。著者が引くドイツの研究者ドレウスの言葉を借りれば、「バグダードやコンスタンティノープルから見れば、カールは遠方の蛮族の一君主に過ぎなかった」——これが、当時の世界地図における、率直な位置づけだったと考えられる※23。
③-3 フランク王国は「周縁」だった
ここで少し視点を引いてみたい。8・9世紀のアフロ・ユーラシア世界——ヨーロッパから北アフリカ、西アジアにかけての、当時の主要な経済圏を指す言葉だ——には、フランクの他にも、コンスタンティノープルを都とするビザンツ帝国、バグダードを都とするアッバース朝、さらに東の唐といった大国が並び立っていた。これらと比べたとき、フランク王国の実力はどうだったのか。
象や機械仕掛けの水時計、豪華な燭台といった、アッバース朝からの贈り物の規模に釣り合うだけの返礼品を、当時のフランク王国が用意できたとは考えにくい。フランクの経済規模は、これらの国々と比べても明確に見劣りしていた。運河一つとってみても、フランクが試みたのは全長3キロメートルほどのドナウ川とライン川を結ぶ運河だったのに対し、ビザンツやアッバース朝の水運事業は100キロメートル規模である※24。
つまり著者の結論は、こうだ——カール大帝とフランク王国は、8・9世紀のアフロ・ユーラシア世界の経済ネットワークの中では、あくまで「周縁」の存在にすぎなかった。にもかかわらず、日本を含む西欧史家・イスラーム史家双方の歴史叙述の中には、カールをビザンツ皇帝と対等、あるいはそれ以上の存在として描くものが少なくない。この「過大評価」を正し、フランク王国を当時の世界の中に正しく位置づけ直すことこそが、この論文の狙いである※25。
(なお著者は、日本の世界史教育そのものについては、むしろ前近代のアジア優位の時代をカリキュラムに含む点で評価している。ただしこの点は本編の趣旨からやや離れるので、末尾で改めて触れたい。)
むすび——「継承」の先にあったもの
さて、①②③と見てきた内容を、改めてつなげてみたい。
フランク王国の「regnum」は、王個人の存在に依存するという弱点こそ持っていたものの、決してからっぽの言葉ではなく、王国会議や協約に支えられた、実体を伴う政治共同体だった。だがカールが手にした「帝国」という称号は、既存の王号の上に積み上げられた、あいまいな飾りにとどまり、フランク宮廷自身、それを独立した理念として鍛え上げようとはしなかった。そして世界地図を広げてみれば、その帝国は、バグダードやコンスタンティノープルから見た「周縁」の一勢力にすぎなかった。

regnumという実体、帝国という空虚、そして周縁国という実力——この3つの組み合わせは、決して盤石な土台とは言えなかった。実際、カールの死からわずか一代を経た843年、帝国はヴェルダン条約によって三つに引き裂かれる。「王国」を積み重ねる形で築かれたカールの帝国は、その王個人がいなくなった瞬間、支えを失ってしまったのである。
前回、われわれはフランク王国を、西ローマ帝国の「継承者」として見てきた。継承したのは、ローマの統治技術であり、キリスト教という宗教的権威であり、そしてもしかすると「会議で物事を決める」という統治の作法も、その延長にあったのかもしれない。だが継承したのは、良いものばかりではなかったのかもしれない。「王国」や「帝国」という概念そのものが、まだ十分に固まりきっていなかったこと——その未成熟さもまた、フランクが受け継いだ、この時代の宿命だったのだろう。
「西ヨーロッパの誕生」と呼ばれる出来事の実像は、輝かしい帝国の成立というより、教皇の思惑、宮廷の慎重さ、そして遠く離れた世界の無関心が絡み合った末に生まれた、危ういバランスの産物だった。カール大帝という一人の傑物の力量に支えられていたその均衡は、彼がいなくなった瞬間、あっけなく崩れていくことになる。
だが「継承」の物語は、これで終わりではない。分裂したフランク王国の一角——西フランクからさらに海を渡った先では、また別の形で「継承」が起きていた。次回は、ブリテン島に目を向けてみたい。
今回③で読んだ津田拓郎論文、実は本論の後半で、思いがけず日本の歴史教育の話に踏み込んでいる。
著者が指摘するのは、日本の世界史教育カリキュラムの、ちょっと意外な強みだ。前近代——つまりアジアが経済的に優位だった時代——を必修科目としてきちんと扱ってきたことで、日本の高校生は「西洋が最初から世界の中心だった」という思い込みから自然と距離を取れる構造になっていた、というのである。ヨーロッパの中等教育の多くが自国史・ヨーロッパ史中心で「世界史」に相当する科目自体を持たないことを考えると、これはたしかに、他国と比べても得がたい利点だったのかもしれない※26。
ところが、である。2022年度から、高校の必修科目は大きく姿を変えた。従来の「世界史A/B」に代わって、近現代史のみを扱う「歴史総合」が必修になったのだ。古代・中世を含む前近代の世界史は、選択科目「世界史探究」に回され、選ばなければ触れる機会すらなくなる。
つまり著者の言う通りなら、われわれが当たり前のように学んできた「アジア優位の中世」という感覚は、これから先の世代にとって、当たり前ではなくなっていく可能性がある。中学の歴史でも前近代の外国史はごく僅かにしか扱われないため、この「歴史総合」化がそのまま進めば、多くの人にとって前近代世界史との接点は、実質的に失われてしまうことになる※27。
だらず世界史をこうして書き続けている身としては、この状況、正直かなり他人事ではない。教科書が教えなくなるなら、こういう場所で誰かが書き続けるしかないんだろうな、と思わされる話だった。
※1 五十嵐修「『王国』・『教会』・『帝国』:9世紀フランク王国の『国家』をめぐって」『史學研究』(以下「五十嵐論文①」)、「1 フリートとゲッツの論争」による。↩
※2 五十嵐論文①、「1 フリートとゲッツの論争」による。↩
※3 五十嵐論文①、「1 フリートとゲッツの論争」による。↩
※4 五十嵐論文①、「1 フリートとゲッツの論争」による。↩
※5 五十嵐論文①、「2 『フランク帝国』は教会か?」による。↩
※6 五十嵐論文①、「4 政治共同体としてのregnum」による。↩
※7 五十嵐論文①、「4 政治共同体としてのregnum」による。↩
※8 五十嵐論文①、「5 宮廷と王国統治」による。↩
※9 五十嵐論文①、「おわりに」による。↩
※10 五十嵐修「『帝国』のゆくえ——カールの皇帝戴冠(800年)直後のフランク・ローマ・ビザンツ」東洋英和女学院大学人文・社会科学論集第21号(以下「五十嵐論文②」)、「1 教皇座との関係」による。↩
※11 五十嵐論文②、「1 教皇座との関係」による。↩
※12 五十嵐論文②、「1 教皇座との関係」による。↩
※13 五十嵐論文②、「2 カールの肩書にみるフランク宮廷の『国』理解」による。↩
※14 五十嵐論文②、「2 カールの肩書にみるフランク宮廷の『国』理解」による。↩
※15 五十嵐論文②、「2 カールの肩書にみるフランク宮廷の『国』理解」による。↩
※16 五十嵐論文②、「3 ビザンツの反応」による。↩
※17 五十嵐論文②、「3 ビザンツの反応」による。↩
※18 五十嵐論文②、「おわりに」による。↩
※19 津田拓郎「8・9世紀アフロ西ユーラシア世界におけるカロリング朝フランク王国」『史學研究』第308号(以下「津田論文」)、「3 カール大帝とハールーン・アッラシードの間の使節交換」による。↩
※20 津田論文、「3 カール大帝とハールーン・アッラシードの間の使節交換」による。↩
※21 津田論文、「3 カール大帝とハールーン・アッラシードの間の使節交換」による。↩
※22 津田論文、「3 カール大帝とハールーン・アッラシードの間の使節交換」による。↩
※23 津田論文、「2 研究史:8・9世紀アフロ西ユーラシア世界におけるカール大帝とフランク王国」による。↩
※24 津田論文、「1 背景:8・9世紀アフロ西ユーラシア世界」による。↩
※25 津田論文、「おわりに」による。↩
※26 津田論文、「おわりに」による。↩
※27 津田論文、「おわりに」による。↩
