さて、今回は久しぶりのエネルギー史、番外編#3である。
番外編#1では、火の発見から石炭・蒸気機関に至るまで——いわば「1次・2次エネルギー革命」を扱った※1。今回はその続き、電気・石油、そして原子力という「3次エネルギー革命」の話をしたい。田中紀夫のエネルギー文明史シリーズ、その1とその3を素材にしている。1次・2次革命は前回すでに書いた道なので、今回はばっさり飛ばして手つかずの領域に一気に踏み込む。
もう一つ、今回改めて厚めに扱いたい話がある。番外編#1の終盤、鉄道反対運動のエピソードに触れた流れで、自動運転車への不安や生成AIへの警戒にもさらっと言及していた。あのときは名前を出しただけで、ちゃんと掘り下げてはいなかった。あれから数ヶ月、AIはさらに進化しているし、わたし自身も仕事でAIを使う機会がどんどん増えている。今回読んだ原子力の論文には、まさにこの「新しい力への恐怖と、それを管理しようとする側の攻防」がこれでもかというくらい詰まっていた。この話は、だらず世界史がずっと底流で扱いたいと思っているテーマの一つでもある。
というわけで今回は、電気・石油による環境負荷の拡大と、原子力という特殊な技術を追いながら、主題はあくまでエネルギーの歴史そのものに据えつつ、「新技術への恐怖はなぜ繰り返すのか」というテーマを並走させる形で書いていきたいと思う。
- 番外編#1 エネルギーと文明〜火・木材・石炭が動かした世界史〜
- 番外編#3 エネルギーと文明2〜電気・石油・原子力が変えた世界史〜(この記事)
① 電気の登場と大衆化
1次・2次エネルギー革命が「燃やして力を得る」話だったのに対し、3次エネルギー革命の柱の一つである電気は少し性質が違う。電気そのものは水力や蒸気のような一次エネルギー源ではない。水力・蒸気・化学反応といった元々の力を、扱いやすい形に変換し、離れた場所まで届けて使うための「二次エネルギー」だ。そしてその実用化の土台は、19世紀を通じてじわじわと積み上げられていった。
紀元前600年頃、古代ギリシャの哲学者ターレスは、琥珀を布でこすると軽いものを引き寄せる静電気の現象に気づいていた※2。ちなみに「エレクトロン(electron)」の語源は、この琥珀を指すギリシャ語だ※3。そこから実に2000年以上を経て、1600年にはイギリスの医師ギルバードが電気磁石の研究成果を残し、ドイツのゲーリケが摩擦電気の実験を行い、1746年には「ライデン瓶」に静電気を蓄え、指先から自由に火花を出せることが実証された※4。1800年にはイタリアのボルタが電池を発明し、1802年にはデービーが炭素棒から電気の光を取り出すアーク灯を実験、1840年代には「エネルギー保存の法則」が確立された※5。
この構図は、番外編#1で見た蒸気機関の成立過程とよく似ている。ヘロンが蒸気の作用を記録してからワットが実用化するまでに1700年かかったように、電気もまた2000年以上の基礎研究の蓄積を経て実用化に至った※6。
もっとも、これはエネルギー革命に限った話ではないのだろう。研究の蓄積がある時点で臨界を超え、次の段階へ一気に進む——このパターンは、いま並走して進んでいるAIの発展にも重なって見える。
ただし重要なのは、技術がブレイクスルーを迎えることと、それが社会に「当たり前」のものとして受け入れられることの間には、また別の時間差があるという点だ。鉄道が「恐怖の対象」から「日常の乗り物」になるまでにも数十年かかった。この時間差については、後の章で改めて扱いたい。
実用化が進むと、電気は急速に生活に浸透していく……はずだった。だが実際には、意外なほど時間がかかっている。1845年のパリでアーク灯が灯った当初、電気動力のコストは蒸気の25倍も高かった※7。1879年にはアメリカのエジソンが京都から取り寄せた竹をフィラメントに使った白熱電球を実用化したが※8、1900年時点でもアメリカの動力エネルギーのうち電気が占める割合はわずか4%にとどまっていた※9。
ここで足踏みしていた理由は、単純にコストや技術力だけの話ではない。当時の工場は、アメリカに限らずイギリスをはじめとする工業国全般で、一台の巨大な蒸気機関(あるいは水車)で天井の回転軸(ラインシャフト)をぐるぐる回し、そこからベルトで工場中の機械に動力を分配する「集団駆動」という仕組みが標準だった。電気モーターに切り替えるということは、単に動力源を差し替えるだけでは済まない。機械の一台一台に専用のモーターをつける「個別駆動」を前提に、工場のレイアウトそのものを設計し直す必要があったのだ。経済史家ポール・デヴィッドはこの現象を、のちのコンピュータ普及の遅さになぞらえて論じている※10。
出典:Rankin Kennedy, Modern Engines, Vol. VI/Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
新しい技術は、古い仕組みの上にただ乗せるだけでは真価を発揮できない——仕組みそのものを作り替えて初めて、技術は本領を発揮する。これは今のAIにもそのまま当てはまる話だとわたしは思う。AIは既存の業務を「そのまま代替する」道具ではなく、業務のやり方そのものを組み替えて初めて力を発揮する技術だ。その組み替えに早く気づき、実際に手を動かした人間や組織だけが、恩恵を先取りできる——電気の普及率が1900年の4%から1940年には70%に達するまで数十年かかったように※9、AIの本当の効果が社会全体に行き渡るのにも、まだしばらく時間がかかるのかもしれない。
ターレス、静電気現象に気づく
医師ギルバード、電気磁石の研究成果を残す
ゲーリケ、摩擦電気の実験
ライデン瓶で静電気を蓄えることに成功
ボルタ、電池を発明
デービー、アーク灯を実験
エネルギー保存の法則が確立
エジソン、京都産の竹フィラメントで白熱電球を実用化
動力エネルギーに占める電気の割合 4%→70%
電気と並行して、もう一つの大転換が起きていた。輸送手段の革命である。
19世紀末の時点では、①馬車、②馬や蒸気で動く船、③石炭焚きの蒸気鉄道、④石炭あるいは石油の蒸気自動車、⑤電気自動車という、多彩な交通手段が競合し合っていた※11。そして興味深いことに、1900年前後のアメリカでは一瞬だけ電気自動車が優勢に立った時期がある。1899年から1900年にかけて、電気自動車の販売台数が蒸気自動車・ガソリン自動車を上回ったという記録が残っている※12。もっともこの優位はごく短命で、すぐに情勢は変わっていくことになる。
ただしここで注意しておきたいのは、当時の電気自動車が今のそれとはまったく別物だということだ。バッテリーは鉛蓄電池で、航続距離はおよそ50〜60キロ程度、最高速度も時速20キロ台にとどまっていた。それでも当時のガソリン車は始動に手回しクランクが必要で振動・騒音・悪臭もひどかったため、静かでギアチェンジも不要な電気自動車は、特に都市部の富裕層や女性のあいだで好まれていたという※12。
流れが決定的に変わったのは1886年、ドイツのダイムラーが高速回転する内燃機関を発明してからだ※13。1908年、アメリカのヘンリー・フォードがT型フォードを発売し、1913年には移動式組立ラインによる量産体制を確立する※14。
加えて1912年、アメリカの技術者チャールズ・ケタリングが「セルモーター」——エンジンを電気の力で自動的に始動させる小型モーター——を発明する。それまでガソリン車はエンジンをかけるのに、車体前面のクランクを力任せに手で回す必要があった(逆回転による骨折事故も少なくなかったという)。この発明によって手回しクランクが不要になり、ガソリン車の使い勝手は一気に電気自動車に追いつくことになる※15。ガソリンの価格低下と量産による低コスト化も重なり、電気自動車は1920年代を通じて急速に姿を消していった。
出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
自動車の大衆化は、アメリカ社会を根底から変えていく。1916年には自動車登録台数340万台、1929年には2,310万台にまで急増し、世界の自動車の78%はアメリカにあった。この頃の普及率をみると、アメリカは5人に1台という割合だったのに対し、イギリスは30人、フランス33人、ドイツ102人、日本702人、ソ連は6,130人に1台という水準にとどまっていた※16。
ちなみに、この急速な車社会化がアメリカで成立した背景には、国土の広さも無関係ではない。「可住地面積」——国土面積から山林・湖沼・河川の面積を差し引いた、実際に人が住んだり利用したりできる土地の面積——を比較すると、一人当たりの可住地面積は、日本はアメリカのおよそ27分の1、フランスの9分の1、イギリスの4分の1しかない※17。車で走り回れる土地の広さそのものが、そもそも違っていたのだ。
こうして電気と石油は、19世紀の基礎研究という静かな土台の上に、わずか数十年で世界の姿を一変させた。だが、この急速な普及の裏側で、静かに進行していたものがある。次はその「負の側面」——環境への負荷が、どのように積み上がっていったのかを見ていきたい。
馬車・蒸気・電気・ガソリンの各動力方式が並立
電気自動車の販売台数が一時的に他方式を上回る
ダイムラー、内燃機関を発明
フォード、T型フォードを発売
ケタリング、電気式セルモーターを発明(手回しクランク不要に)
移動式組立ラインによる量産体制を確立
電気自動車、市場からほぼ姿を消す
② 環境負荷の爆発と非対称性
電気と石油は、たしかに人々の暮らしを豊かにした。だが便利さの裏側で、環境への負荷は静かに、そして急速に積み上がっていった。1次・2次エネルギー革命が「森林の枯渇」という目に見えやすい形で負荷を示していたのに対し、3次エネルギー革命の負荷はもっと厄介だ。気づいたときにはすでに、地球全体を巻き込む規模になっていたのである。
まず分かりやすいのが都市への影響だ。電気と石油によって人々が都市に集中し、その集中がさらに便利さを呼び込む——このサイクルは、東京の気候そのものを変えてしまった。1997年の気象庁調査によると、東京で最低気温が氷点下になる「冬日」は、1930年代には年間56日あったのが、90年代にはわずか3日にまで激減。1989年・1993年・2004年にいたっては、冬日が一日も観測されなかった※18。かつて風物詩だった霧も、1930年代の年間33回から1990年代には数回にまで急減している。都心部の気温はこの100年でおよそ7度上昇しており、2003年の環境省報告では、東京都心の最低気温の年間平均上昇幅が横浜や熊谷など周辺都市のおよそ2倍に達しているという。ある調査予測では、2030年頃には夕方の気温が43度を超える可能性まで示されている※19。
原因は一つではない。冷暖房や自動車からの排熱、緑地の減少、高層ビルが風の通り道を塞ぐこと、アスファルトやコンクリートが地面からの水分蒸発を妨げること、そして化石燃料消費そのものによる温暖化——これらが複合的に重なった結果だ※20。論文の著者は、この対策として「100万人を1単位とする環境保全都市」という独自の都市改造モデルを提言しているが※21、これはあくまで著者個人の構想であることは断っておきたい。
都市の話にとどまらず、この負荷は地球規模にまで広がっていく。論文が参照するIPCC——気候変動に関する政府間パネル——の第2次報告(2000年前後の時点)では、地球の平均気温は19世紀末からおよそ0.45度上昇したとされていた※22。今回改めて調べてみたところ、2025年時点での上昇幅はおよそ1.4度に達しているという※23。論文が書かれてから20年余りのあいだに、気温上昇はさらに1度近く積み増されたことになる。北極圏では永久凍土の融解が進み、閉じ込められていたメタンガスが放出されることで温暖化がさらに加速するという悪循環も指摘されている。異常気象による経済損失も、1980年代には年間50億ドルに満たなかったのが、1995年には380億ドルにまで急増した※24。
日本でも2002年3月、全国103地点で観測記録が更新され、東北地方より南では3月のうちに桜が開花した※25。当時はこれが大きな異常気象として報じられたのだが、温暖化がさらに進んだ今となっては、3月開花そのものはむしろ珍しくなくなりつつある——そのこと自体が、この20年余りの温暖化の加速ぶりを物語っているとも言えるだろう。大気中のCO2濃度は、産業革命前は280ppm程度だったが、論文執筆時点(2004年)ですでに379ppmに達しており、このままのペースが続けば2050年頃には560ppmに達するという試算も示されていた※26。
そしてもう一つ、この論文が投げかけている重要な視点がある。中国やインドをはじめとする途上国が、いままさにアメリカ型の大量消費パターンをたどりつつある、という指摘だ※27。考えてみれば、これは奇妙な話でもある。先進国は100年以上かけて化石燃料を燃やし続け、豊かさを築いてきた。その同じ道を、これから途上国が歩もうとしたとき、「これ以上燃やすな」と後から言うのは、果たして筋が通っているのだろうか。これは国際的な気候交渉でも「共通だが差異ある責任(CBDR)」という原則として議論されている論点で、先に豊かになった側と、これから豊かになろうとする側のあいだに横たわる、根深い非対称性を示している。
電気・石油という3次エネルギー革命は、暮らしを一変させると同時に、こうして地球規模の負荷と、豊かさをめぐる不公平という二重の課題を人類に突きつけることになった。そしてこの3次エネルギー革命には、もう一つ、まだ触れていない主役がいる。次はその主役——原子力について見ていきたい。
③ 原子力という特殊な技術
電気・石油と並んで3次エネルギー革命を担うもう一つの技術——原子力について、ここからは田中のもう一本の論文、その1を参照していきたい。ここまで見てきた電気や石油とは、原子力はかなり毛色が違う。生まれた瞬間から、恐怖と表裏一体だったのだ。
1930年代末、原子核が瞬時に連鎖分裂することが明らかになり※28、1942年には原子爆弾の製造可能性が証明された※29。核分裂の発見からわずか数年で兵器化に至った、人類史のスケールで見ればまさに一瞬の出来事だ。そしてこの原子力にも、①で見た電気自動車とガソリン車の競争や、これまでの技術史に繰り返し現れるパターンが当てはまる——軍事目的が先行し、民生への転用はそのあとにやってくる、というパターンだ。
1945年8月、広島と長崎への原爆投下は、世界に衝撃を与えた。たった一発の爆弾が都市を壊滅させる——この破壊力を目の当たりにした人類は、すぐさま「この力をどう管理するか」という問題に直面する※30。1946年、アメリカのトルーマン政権は、自ら率先して原爆を廃棄したうえで国際原子力開発機構を設立し、違反には処罰も辞さない、という国際管理の構想を提示した(一般に「バルーク案」と呼ばれる構想である※31)。ただしこれには大きな問題があった。すでに原爆を保有しているアメリカが、その管理の枠組みを主導しようとしていたのだ。ソ連の側からすれば、これは「アメリカの独占状態を追認させるための仕組み」にしか見えなかっただろう。この構想は米ソの冷戦構造のなかで頓挫し、1949年にはソ連も原爆実験に成功、1952年にイギリス、1960年にフランス、1964年に中国と、核保有国は次々に増えていった※32。先に手にした者が、その力を管理する枠組みまで主導しようとする——この構図は、のちほどまとめで改めて触れたい。
原子力への向き合い方が変わる転機は1953年に訪れる。アメリカのアイゼンハワー大統領が国連本部で「平和のための原子力」演説を行い、軍事利用一辺倒だった原子力を、核分裂物質を国際機関で管理しながら平和的に利用する方針へと転換したのだ。1956年の国連総会でIAEA(国際原子力機関)の創設が決まり、1957年にウィーンで正式に発足する。1970年に発効したNPT(核拡散防止条約)は、1967年時点で核を保有していたアメリカ・ソ連・イギリス・フランス・中国の5ヶ国以外の核保有を制限する枠組みだ※33。ただしこの体制にも限界がある。1974年に条約未加盟のインドが核実験を行った後、パキスタン・イスラエル・北朝鮮は、国家主権を盾にIAEAの査察を受け入れておらず、条約の網の外に留まり続けている※34。
この「核放棄すれば安全は守られるのか」という問いをめぐって、近年もう一つ重い出来事があった。1994年のブダペスト覚書で、ウクライナはソ連崩壊後に保有していた核兵器を放棄する見返りに、アメリカ・イギリス・ロシアから安全保障の確約を得ていた。だが2022年、ロシアがウクライナへ侵攻したことで、この約束は反故にされる結果となった※35。この一件は、核放棄を検討する各国の疑念を強めたと見られている。「先に核を手放した国が、その後も本当に守られるのか」——この問いは、NPT体制そのものの説得力にも関わってくる。
原子力への恐怖は、国家間の駆け引きだけでなく、事故という形でも人々の記憶に刻まれてきた。1979年のスリーマイル島原発事故、1986年のチェルノブイリ原発事故は、世界に原子力の危うさを強く印象づけた※36。日本国内でも、1995年の高速増殖炉もんじゅのナトリウム漏れ事故、1999年の東海村JCO臨界事故と続き※37、2011年の福島第一原発事故によって、原子力へのバッシングは決定的なものになる。
ここで一つ、時代性について触れておきたい。今回参照している論文は2003年に書かれたものだ。つまり福島第一原発事故が起きる8年も前——原子力がまだ「化石燃料を補い、温暖化を抑えるための希望」として語られていた時代の文章である。論文は最後を、エネルギーを飽食する文明である以上、原子力発電を容認せざるを得ず、化石エネルギーを補うエネルギーとして存続させていくほかない、という趣旨で締めくくっている※38。福島後のバッシングをまだ知らない時代に書かれたこの一文は、いま読むと重みが違って聞こえる。
わたし自身、この考え方には強く頷くところがある。わたしの父はかつて電力会社に勤めており、原子力を肯定する立場だった。「原子力をなくすには、電気を使う生活そのものを捨てなければならない」というのが父の口癖で、恐怖や不安があることを認めたうえでなお、その主張には一理あるとわたしは思っている。原子力は、恐怖の対象になっても、電気という3次エネルギー革命の恩恵を手放さない限り、私たちの生活から完全に切り離すことはできない技術であり続けているのだ。
こうして見てくると、原子力というのは、電気や石油とはまったく違う種類の「恐怖」を人類に突きつけてきたことが分かる。鉄道への恐怖が「未知の巨大技術への不安」だったのに対し、原子力への恐怖は、破壊力そのものへの恐怖と、それを「誰が管理するのか」という国家間の疑心暗鬼が絡み合った、もっと複雑なものだ。ここまで①②③と見てきた3次エネルギー革命の全体像を、最後にまとめておきたい。
むすび 新技術への恐怖はなぜ繰り返すのか
ここまで、電気・石油・原子力という3次エネルギー革命を追いかけてきた。最後に、全体を貫く流れを整理しておきたい。
①では、電気と自動車という2つの新技術が、19世紀の静かな基礎研究の蓄積を経て一気に実用化されたことを見た。ただし技術がブレイクスルーを迎えることと、それが社会に実装され「当たり前」になることのあいだには、また別の長い時間差があった。工場が「集団駆動」から「個別駆動」へ切り替わるのに数十年かかったように、新しい技術は既存の仕組みにただ乗せるだけでは真価を発揮しない。仕組みそのものを作り替えて初めて、技術は本領を発揮する——これは電気の話にとどまらず、いま並走して進んでいるAIにも重なる話だとわたしは思う。
②では、その電気と石油がもたらした恩恵の裏側で、環境負荷が都市から地球規模へと拡大していった経緯を見た。東京のヒートアイランド現象、加速する地球温暖化、そして先進国と途上国のあいだに横たわる「共通だが差異ある責任」という非対称性。先に豊かさを築いた側が、あとから豊かになろうとする側にだけ自制を求める——この構図は、③で見たバルーク案の話とも、実は同じ根を持っている。先に手にした者が、その力を管理する枠組みまで主導しようとする。核であれ、化石燃料であれ、繰り返し現れるパターンだ。
③では、原子力という技術が、電気や石油とはまったく違う種類の恐怖——破壊力そのものへの恐怖と、それを「誰が管理するのか」という国家間の疑心暗鬼が絡み合った恐怖——を人類に突きつけてきたことを見た。バルーク案の頓挫、NPT体制の限界、ブダペスト覚書の反故。核放棄すれば守られるのか、という問いに、まだ誰も確かな答えを出せていない。
さて、番外編#1の最後で、わたしは鉄道反対運動のエピソードに触れながら、自動運転車への不安や生成AIへの警戒にも本質的には同じパターンが働いているのではないか、と名前だけ挙げて通り過ぎていた。
今回、電気・石油・原子力という3次エネルギー革命を追いかけてみて、あらためて思う。新しい技術への恐怖というのは、時代を超えて繰り返されるパターンなのだ。鉄道は「乗客が窒息する」と恐れられ、電気自動車はガソリン車に競り負け、電気そのものは工場の仕組みごと作り替えられるまで社会に根づかなかった。そして原子力にいたっては、恐怖の対象になっているだけでなく、「誰がその力を管理するのか」という国家間の綱引きにまで発展している。恐怖の中身は技術によって違っても、「未知の力を前にした人類が、まず恐れ、それから時間をかけて折り合いをつけていく」という構造そのものは、驚くほど変わっていない。
いま人類は、AIという新しい力を前に、また同じ入り口に立っているのかもしれない。過去のパターンが教えてくれるのは、恐怖そのものは消えないということ、そして恐怖を乗り越えて技術が本当に根づくまでには、仕組みそのものを作り替えるだけの時間と覚悟が必要だということだ。3次エネルギー革命の主人公たちがそうだったように。
※1 「だらず世界史 番外編#1」(本シリーズ既刊)による。↩
※2 田中紀夫「エネルギー文明史――その3」(2)石油・天然ガスレビュー(石油天然ガス・金属鉱物資源機構)2004年11月号(以下「論文③後」)、第3部・第1章「電気の正体は17~19世紀に解明」による。↩
※3 論文③後、同章による。↩
※4 論文③後、同章による。↩
※5 論文③後、同章による。↩
※6 「だらず世界史 番外編#1」⑥「ワットの蒸気機関——エネルギー革命の本質」による。↩
※7 論文③後、第3部・第1章「アーク灯からエジソンの白熱電球へ」による。↩
※8 論文③後、同章による。↩
※9 論文③後、同章による。↩
※10 経済史家ポール・デヴィッドによる「ダイナモとコンピュータ」の議論(”The Dynamo and the Computer”, American Economic Review, 1990)、および工場の集団駆動・個別駆動に関する技術史一般(例:ASSEMBLY誌 “Line Shafts and Belts” 等)を参照。論文③後には記載のない、当記事独自の補足調査。↩
※11 論文③後、第3部・第2章「20世紀初から石油自動車の登場」による。↩
※12 1899〜1900年の電気自動車優勢、および当時の電気自動車の仕様(鉛蓄電池・航続距離・最高速度等)は、米エネルギー省”The History of the Electric Car”等を参照した当記事独自の補足調査。論文③後には記載なし。↩
※13 論文③後、第3部・第2章「20世紀初から石油自動車の登場」による。↩
※14 論文③後、同章による。ただし論文の原記載は「1896年にフォードがT型フォード車の大量生産に成功」とあるが、実際には1896年は試作車「クアドリサイクル」の完成、T型フォードの発売は1908年、移動式組立ラインによる量産体制の確立は1913年であるため、実年代に訂正して記載した。↩
※15 ケタリングによるセルモーター発明(1912年)は論文には記載のない、当記事独自の補足調査。↩
※16 論文③後、第3部・第2章「急速なアメリカでの自動車の普及」による。↩
※17 論文③後、第3部・第2章「無規制の燃料消費による大気汚染」による。↩
※18 論文③後、第3部・第3章「都市化とヒートアイランド」による(1997年気象庁調査)。↩
※19 論文③後、同章による(2003年環境省報告)。↩
※20 論文③後、同章による。↩
※21 論文③後、第3部・第3章「都市に自然循環システムを導入する」による。↩
※22 論文③後、第3部・第4章「20世紀から気温は上昇し始めた」による(IPCC第2次報告)。↩
※23 2025年時点の気温上昇幅(約1.4度)は、Copernicus Climate Change Service・Berkeley Earth等の2025年報告を参照した当記事独自の補足調査。論文には記載なし。↩
※24 論文③後、第3部・第4章「寒帯・凍土の溶融と保険金払いの増加」による。↩
※25 論文③後、同章による(気象庁「気候変動監視レポート・2002年」)。↩
※26 論文③後、第3部・第4章「CO2濃度は19世紀後半から上昇」「減らないエネルギー消費で増えるCO2」による。↩
※27 論文③後、結び「21世紀の地球人の生き方」による。なお「共通だが差異ある責任(CBDR)」という用語自体は論文にはなく、当記事が国際気候交渉の一般的な原則として補足した。↩
※28 田中紀夫「エネルギー文明史――その1」石油・天然ガスレビュー(石油天然ガス・金属鉱物資源機構)2003年11月号(以下「論文①」)第3部・第3章・第4節「原子力の登場」、「第2次大戦が産んだ原子力エネルギー」による。↩
※29 論文①、同節による。↩
※30 論文①、「原子爆弾の衝撃的な登場」による。↩
※31 論文①、「トルーマン大統領の国際管理の構想」による。なお「バルーク案」という呼称自体は論文中になく、一般に知られる史実上の名称(提案者バーナード・バルーク)として当記事が補った。↩
※32 論文①、同節による。↩
※33 論文①、「1953年のアメリカの平和利用への転換表明」による。↩
※34 論文①、同節による。↩
※35 ブダペスト覚書(1994年)およびロシアによるウクライナ侵攻(2022年)は、論文には記載のない一般史実として当記事が補足した。↩
※36 論文①、「原子力施設の事故と今後」による。なお論文の原記載はスリーマイル島事故を1974年、チェルノブイリ事故を1985年とするが、実際の発生年(1979年・1986年)に訂正して記載した。↩
※37 論文①、同節による。↩
※38 論文①、「原子力エネルギーと日本」による。↩
【論文①】田中紀夫「エネルギー文明史――その1」石油・天然ガスレビュー(石油天然ガス・金属鉱物資源機構)2003年11月号
【論文③前】田中紀夫「エネルギー文明史――その3」石油・天然ガスレビュー(石油天然ガス・金属鉱物資源機構)2004年9月号
【論文③後】田中紀夫「エネルギー文明史――その3」(2)石油・天然ガスレビュー(石油天然ガス・金属鉱物資源機構)2004年11月号
