さて、今回は満を持しての「西ローマ帝国滅亡」回です。

476年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位——世界史の教科書だと、この一文でサラッと片付けられてしまうんですが、実際に論文3本(南川高志・児島秀樹・橋本龍幸)を読み込んでみたら、「滅亡」の中身、めちゃくちゃ奥が深かったです。

というか、正直しんどかったです。分量が多いのよ。だらずのくせに。

ゲルマン編(全4回)
  1. #6 異民族編
  2. #7 ゲルマン諸王国編(この記事)
  3. #8 カール大帝編
  4. #9 アングロサクソン編

① 476年、何が起きたのか——「滅亡」という物語の作られ方

まず、「476年」が何を意味しているのか、そこから確認していきたい。

この年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが、最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させた。これが、いわゆる「西ローマ帝国の滅亡」である。

ただし、この出来事が「帝国の終わり」であり「古代の終わり」でもあると認識されたのは、実は少し後の時代のことで、同時代人の認識ではなかったらしい※1。「滅亡」という物語が定着したのは、もっと後——ルネサンス期以降、ヨーロッパで古代ギリシア・ローマへの憧れが高まった時代のことだという。後期ローマ帝国は「輝かしい古代が終わる時期」と位置づけられ、「野蛮なゲルマン人によって高度な文明世界が滅ぼされる過程」として、負の価値を与えられていった※2。

この「滅亡」観に真っ向から異を唱えたのが、20世紀を代表する歴史学者ピーター・ブラウンだ。ブラウンは、後期ローマ帝国の宗教・心性(人々の内面の在り方)を研究した学者で、1970年代以降の古代史研究に大きな影響を与えた人物である。彼は3世紀から8世紀ごろまでのこの時代を「古代末期」と呼び、「衰亡」でも「没落」でもなく、古代・中世どちらにも属さない、それ自体で独自の価値を持つ一つの時代として捉え直した※3。この見方は学界に大きな影響を与え、一時期は「ローマ帝国の衰亡」という言葉自体、ほとんど語られなくなったという。

ただし、この「衰亡を語らない」姿勢そのものへの反論も出てきている。歴史学者リーベシュッツ(ノッティンガム大学で長く教えた)は、「衰退という概念を締め出す(アウトロー扱いする)のは、多文化主義の行き過ぎた濫用だ」と批判した。人口減少や貧困の拡大、行政機構の不全といった数量的な衰退さえ否定できないはずだ、という主張だ※4。

この批判をさらに実証的に展開したのが、考古学者ブライアン・ワード=パーキンスと歴史学者ピーター・ヘザーである。両者とも2005〜2006年に、それぞれ「ローマ帝国は衰亡した」と真正面から論じる書物を発表し、話題を呼んだ※5。二人とも、4世紀末までローマ帝国は極めて健全だったという前提に立ち、その帝国を外側から滅ぼしたのはゲルマン民族の侵入だった、という「外因論」の立場をとる。これに対して、後述するような「地方エリートが自ら中央を見限った」とする「内因論」的な説明をする研究者もおり、外からの侵入か、内側からの崩壊か、という対立軸がこの分野の一つの争点になっている。

ただし、ワード=パーキンスとヘザーの主張には矛盾もある。実は二人とも、「ゲルマン民族の軍事的脅威は実はそれほど大きくなかった」という近年の研究成果自体は受け入れているのだ。だとすると、軍事的に大した脅威ではなかったはずのゲルマン人が、なぜ健全だったはずのローマ帝国を滅ぼせたのか、という説明がつかなくなってしまう※6。

そしてもう一つ、押さえておきたいのが「ゲルマン民族」という言葉そのものへの疑いだ。かつては「ゲルマン人という一つのまとまった民族集団が、遠い北方の故郷を離れて長い放浪の末にローマ帝国へたどり着き、これを打ち倒して自分たちの王国を築いた」というイメージで語られがちだった。しかし近年の研究では、そもそも「ゲルマン人」というくくり自体が、最初から一つの完成された民族だったわけではなく、複数の集団が離合集散を繰り返しながら、その都度メンバーやアイデンティティを組み替えていった、流動的な連合体だったと考えられている(これを「エスノジェネシス=民族形成」と呼ぶ)※7。しかも彼らは、ローマとの数百年にわたる交易・傭兵としての従軍・外交的接触を通じて、既にローマ的な統治技術や生活文化にかなり馴染んでいたことも分かってきている。

この見方に立つと、フランク王国のようなゲルマン諸国家では、古代的な秩序がおおよそ7世紀ごろまで存続していたと理解する研究者が多い。つまり彼らゲルマン人は、ローマ帝国の「破壊者」というより、既に変容しつつあったローマ世界を引き継いでいった「継承者」として現れる、ということになる——この論文全体を通しても、これが一番の核心的な視点だ※8。

じゃあ、なぜそのローマ帝国は「破壊」ではなく「継承」される側に回ったのか。ここで注目したいのが、ある中世史家たちの説だ。彼らが着目するのは「地方エリート」——皇帝から派遣された官僚というより、ガリアなどの土地に根を張った地主・軍人貴族のような、在地の有力者層のことである。彼らは400年ごろ、皇帝を中心とする政治・社会システムから「自発的に」離脱していった、と考える研究者たちがいる。地方エリートにとって、中央(皇帝政府)との結びつきは、もはや権力や社会的地位を維持するのに役立たなくなっていた。そこで彼らは、既にローマの統治技術を学び、それなりの実力をつけていたゲルマン人有力者との結びつきに乗り換えていった、というのだ※9。

だとすれば、「ゲルマン人の侵入がローマ帝国を滅ぼした」のではなく、「ローマ帝国の側が既に崩れ始めていたからこそ、ゲルマン人がその空白に入り込めた」という、因果関係の逆転した説明も成り立つことになる。ただし、これもあくまで一つの解釈にすぎない。何が「本当の」原因だったかを一つに絞り込めるほど、この時代の史料は残っていないのだ。

結局のところ、「476年」という一点だけを見て「ローマは滅亡し、ゲルマンの中世が始まった」と語ることには、かなり無理がありそうだ。実際には、もっと緩やかで、双方向的な——ローマがゲルマンを飲み込み、ゲルマンがローマを引き継いでいく——プロセスがあった、と見るほうが実態に近いらしい。

では、そのゲルマン人たちは、実際にどんな国を作っていったのか。次は、この時代に乱立したゲルマン諸王国の中身を見ていく。

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② 乱立するゲルマン諸王国——王国ごとに違う「法」のかたち

①で見たように、ローマ帝国は一夜にして滅んだわけではなく、じわじわと変質しながらゲルマン人に引き継がれていった。では実際、どんな国が生まれたのか。ここでは、この時代を代表するいくつかの王国を見ていく。

まず注目したいのが、実は「ゲルマン人がやってくる前」から、ローマ帝国自体がすでに変質し始めていたという事実だ。4世紀後半、皇帝ウァレンティニアヌス1世は、農業奴隷を土地から切り離して売却することを正式に禁止する法を出している※10。奴隷が土地に縛りつけられ、事実上の「農奴」化していく——これは後の中世荘園制の原型そのものであり、ゲルマン人の侵入以前から、ローマの経済構造そのものが「中世的」な形に変わりつつあったことを示している。

ヴァンダル王国

ゲルマン人の大移動の中でも、かなり大胆な移動を見せたのがヴァンダル族だ。もとはパンノニア(現ハンガリー付近)に定住していた東ゲルマン人の一派だったが、イベリア半島を経由して北アフリカまで渡り、439年、ガイセリック王のもとでカルタゴを中心にヴァンダル王国を建国した。455年にはローマまで攻め込んで略奪している※11。ちなみに、ヴァンダル族がイベリア半島南部に一時定住した名残として、諸説あるが、現在の「アンダルシア」という地名が生まれたとされる。

このヴァンダル王国、実は100年ほどでユスティニアヌス(東ローマ皇帝)によって滅ぼされる(533/534年)。ユスティニアヌスは同時期に西地中海の制海権も奪い、西ローマ領の再征服を進めていた——これは「ローマ帝国が本当に滅んだのか」を考える上でも興味深いポイントで、東ローマから見れば、まだ「ローマ帝国の再興」は現実的な選択肢だったということになる。

西ゴート王国

西ゴート族は、トロサ(現トゥールーズ)を拠点にガリア南部に定着したのち、イベリア半島の征服に成功する。ここで面白いのが、当時の人口構成だ。6世紀初め、西ゴート人が約20万人だったのに対し、旧ローマ属州の住民(ヒスパニア住民)は約600万人にのぼったという※12。圧倒的に少数の征服者が、圧倒的多数の被征服者を統治しなければならない——実はほぼ同じ頃、遠く離れた中華世界でも似た構図が繰り広げられていた。五胡十六国〜北魏の時代、少数の遊牧民族(鮮卑など)が多数の漢人を支配する、という同じ課題に直面していたのだ。時代も地域も違うのに、同じ構造の統治問題にぶつかるあたり、歴史の妙というほかない。

この状況で採用されたのが「属人法」(住む人の出自によって適用される法が変わる仕組み)だ。先住のローマ系住民にはローマ法を、西ゴート人には彼ら自身の法(エウリック法典)を、それぞれ別に適用する、という棲み分けである。

しかしこの体制は長くは続かない。587年、西ゴート王レカレドがカトリックへの改宗を宣言する。西ゴート族はもともとキリスト教の一派「アリウス派」を信仰していたが、このアリウス派、実は325年のニカイア公会議で正式に異端認定されていた教義だった——つまり西ゴート族は、ローマの主流派(カトリック)から見れば「異端の異民族」だったわけだ。この改宗によってアリウス派の典礼は行われなくなり、ゴート語も姿を消していく。そして653〜654年、ついに『西ゴート法典』が公布され、ローマ系住民と西ゴート人にバラバラに適用されていた法が、一つの「属地法」(その土地に住む全員に等しく適用される法)へと統合された※13。法典の冒頭には「一つの体(王国)・一つの頭(王)・一つの魂(法)」という有名な一節がある。少数の征服者と多数の被征服者が、100年以上かけてようやく一つの「国民」としてまとまっていった、その到達点を象徴する言葉だ。

ただし、この西ゴート王国も711年、アフリカから侵入してきたムスリムのベルベル人によってあっけなく滅ぼされてしまう。イベリア半島は、以後長くイスラーム勢力の支配下(アンダルス)に入ることになる。

ランゴバルド王国

イタリア半島に目を移すと、568年にランゴバルド人がここに侵入し、王国を築いている。7世紀にはほぼイタリア半島全体を制圧するが、ラヴェンナ〜ローマを結ぶ回廊地帯と、半島南端のカラブリア地方だけは、最後まで東ローマ帝国領として残った※14。

7世紀のロタリ王のもとで作られた「ロタリ王法典」(643年)は全388カ条からなる、かなり体系的な法典だ。通行妨害・家屋侵入・殺害・放火・相続・婚姻・売買・窃盗など、生活のあらゆる場面を規定しており、身分(自由人か奴隷か)によって賠償額まで細かく定められている※15。「侵入してきたゲルマン部族」が、これほど整った成文法を——しかもラテン語で——作れていたという事実自体、ローマ的な統治技術がすでにどれだけ深く浸透していたかを物語っている。

もっとも、このランゴバルド王国も、結局イタリア半島全体を統一しきることはできなかった。この後実に1861年のイタリア王国成立まで——1300年近くにわたって——イタリア半島が一つにまとまることはない。もっとも、その長い分裂の歴史はまた別の回のお話だ。

そしてフランク王国

こうして見ていくと、ヴァンダル・西ゴート・ランゴバルドと、王国それぞれが「征服者の法」と「ローマ人の法」をどう折り合わせるかに苦心してきたことが分かる。そしてこの後、西ヨーロッパの中世を最終的に形作っていくのが、フランク王国だ。

次の③では、このフランク王国の内部で実際に何が起きていたのか——王権と、その実権を奪っていく「宮宰」たちの生々しい権力闘争を、当時の年代記そのものから見ていく。

③ ローマとゲルマンの連続性——フランク王国の宮宰たちが見せたもの

②で見たように、各王国は「征服者の法」と「ローマ人の法」をどう折り合わせるかに苦心してきた。では、その先——実際にゲルマン人自身が国を動かすようになったとき、そこにローマは、どれだけ「生きて」いたのだろうか。

この問いに具体的な答えをくれるのが、『フランク史書』という8世紀初めに書かれた年代記だ。著者は不詳だが、フランク王国西部(ネウストリア)出身の人物と考えられている※16。この史書が描く7世紀後半〜8世紀初め、フランク王国では、王権そのものよりも、王を補佐する「宮宰きゅうさい」というポストをめぐる、生々しい権力闘争が繰り広げられていた。

まず押さえておきたいのは、フランク王国がすでにこの時期、ネウストリア・アウストラシア・ブルグンディアという三つの分王国に分かれていたことだ。メロヴィング朝の王たちは、この3王国の全部、あるいは一部を統治する形で王位に就く。しかし7世紀後半になると、実際に政治を動かしていたのは王本人ではなく、各王国に置かれた「宮宰(マヨル・ドムス)」という側近ポストだった。

この史書には、次から次へと宮宰の名前が登場する。エブロイン、ワラットー、ベルカル、ピピン2世……。彼らは、時に王を意のままに操り、時に対立する宮宰同士で殺し合い、時には自分の息子を勝手に王座に据えようとして周囲の反発を買う。王家の血統(メロヴィング家)そのものは神聖視され、簡単には廃されないが、実権はどんどん宮宰の手に移っていく——これが8世紀初めまでのフランク王国の実態だ※17。

ここで興味深いのが、宮宰たちが用いる称号だ。史書の中で、ある時期の宮宰には「プリンケプス(princeps)」という言葉が使われている。これはもともと、ローマ共和政・帝政期に「元老院の第一人者」「皇帝」を指したラテン語の称号である※18。フランク人の一豪族にすぎない宮宰が、ローマ皇帝的な権威の響きを持つ言葉で自らの立場を表現しようとしていた——これは、ゲルマン人の権力者が、ローマの統治文化・権威の枠組みを、かなり深いレベルで内面化していたことを示す、分かりやすい証拠だと言える。

もう一つ、この史書から見えてくるのが「王という存在そのものの重み」だ。7世紀後半、宮宰の一人グリモアルドは、幼い正統の王子を強引に出家させ、代わりに自分の息子を王座に据えるという簒奪を試みる。しかしこれにフランク人たちは激怒し、グリモアルドを捕らえて処刑してしまう※19。実権を握った宮宰たちでさえ、メロヴィング家の血統そのものを廃絶することには踏み込めなかった。

この史書の主役級として繰り返し登場するピピン2世とカール・マルテルは、実は後にフランク王国そのものを乗っ取る「カロリング家」の権力基盤を築いた中心人物たちだ。しかし当の二人は、生涯「宮宰」の地位にとどまり続け、自ら王位に就くことはなかった。この壁を最終的に破ったのは、カール・マルテルの息子ピピン3世であり、それは751年——この史書が描く時代のさらに30年ほど後、メロヴィング朝を廃してカロリング朝を開いたときのことになる※20。

血統は神聖なものとして残し続け、実権だけを別の系統に移していく——この構図は、実は日本の天皇制ともどこか似ている。摂関政治や、その後の武家政権も、天皇という血統そのものは廃絶せず、その権威を利用しながら実権を握り続けてきた。ただし、フランク王国の場合は最終的に血統そのものが廃絶された(カロリング家による簒奪)のに対し、日本の天皇制は血統を絶やさないまま今日まで続いている、という決定的な違いがある。

この違いを生んだ一因として考えられるのが、「血統に代わる、別の正統性の供給源があったかどうか」だ。フランク王国の場合、ピピン3世の王位簒奪(751年)は、教皇による戴冠(聖別)を受けることで正当化された。つまり西ヨーロッパには、王家の血統以外に「教会」という、別の権威づけの装置が既に存在していたのである。だからこそ、いざとなれば血統そのものを乗り換えるという選択肢が取りやすかった、とも言える。一方、日本にはこれに相当するような「血統の外側にある、独立した正統性の供給源」が育たなかった——だからこそ、血統そのものを手放さず、その周りで実権だけを回し続ける、という独特のやり方が続いてきたのかもしれない。

つまりこの時代のフランク王国では、「ローマ的な権威の言葉(プリンケプス)」と「ゲルマン的な血統への畏怖(メロヴィング家)」という、由来の異なる二つの権威が同居していたことになる。ローマ帝国という国家そのものはとうに西方から姿を消していたのに、その統治の作法・権威の演出方法だけは、ゲルマン人の王国の中にしっかりと生き続けていたわけだ。

これは、①で見た「継承者としてのゲルマン人」という見方を、かなり具体的なレベルで裏づける実例と言っていい。ローマ帝国は「滅んだ」というより、その統治のノウハウごと、ゲルマン人に引き継がれていった——フランク王国の宮宰たちの権力闘争は、まさにその生々しい現場だったのである。

まとめ

今回は、参考論文3本(南川高志・児島秀樹・橋本龍幸)を通して、「西ローマ帝国の滅亡」という出来事を、あえて解像度を上げて見てきた。

①で確認したのは、「476年=ローマ滅亡」という物語自体が、実はルネサンス期以降に後付けで作られたイメージだった、ということだ。20世紀の歴史学者ピーター・ブラウンはこの見方に異を唱え、この時代を「古代末期」として捉え直したが、その後さらに「やはり衰亡はあった」とする反論も相次いでいる。どちらが正しいと簡単に決着がつくものではなく、「476年をどう評価するか」自体が、今なお歴史学の現役の論争になっている。

②では、そのローマ帝国の後を継いだゲルマン諸王国——ヴァンダル・西ゴート・ランゴバルドが、それぞれ「征服者の法」と「ローマ人の法」をどう折り合わせていったかを見た。属人法から属地法へ、時に改宗を挟みながら、少数の征服者と多数の被征服者が一つの国民としてまとまっていくプロセスは、王国ごとに違う形を取りながらも、共通してローマの統治技術・法体系を土台にしていた。

③では、フランク王国の宮宰たちの生々しい権力闘争を通して、「ローマ的な権威の言葉」と「ゲルマン的な血統への畏怖」という、由来の異なる二つの権威が同居していた様子を見た。ローマ帝国という国家そのものは消えても、その統治のノウハウ・権威の演出方法は、ゲルマン人の王国の中にしっかりと生き続けていた。

3つの論文に共通していたのは、「ローマ帝国はゲルマン人によって滅ぼされた」という単純な図式ではなく、「ローマ世界がゲルマン人によって引き継がれていった」という、もっと緩やかで双方向的なプロセスだった、ということだ。「滅亡」というより「継承」——この視点は、次回の#8「カール大帝とヨーロッパの誕生」にもそのまま繋がっていく。カール大帝の戴冠(800年)で「ローマ皇帝」の称号が復活するのも、まさにこの「継承」の延長線上の出来事だからだ。

今回は論文3本という、だらずにはあまりに不釣り合いな物量に苦しめられたが、おかげで「ローマは滅んだのか、それとも生き続けたのか」という、単純そうに見えて実はかなり奥深い問いに、少しは近づけた気がする。次回はいよいよ、その「継承」の完成形とも言えるカール大帝の時代へ進んでいく。

次回、#8「カール大帝とヨーロッパの誕生」に続く。

※1 南川高志「フォーラム ローマ帝国の衰亡とは何か」『西洋史学』第234号(2009年、以下「南川論文」)、「1.古代終焉期はいかに語られるべきか」(南川執筆)による。↩

※2 南川論文、「1.古代終焉期はいかに語られるべきか」による。↩

※3 南川論文、「1.古代終焉期はいかに語られるべきか」による。↩

※4 南川論文、井上文則「2.ローマ帝国衰亡論の現在」、「古代末期学派への批判」による。↩

※5 南川論文、井上文則「2.ローマ帝国衰亡論の現在」、「新しいローマ帝国衰亡論(1)――その概要」による。↩

※6 南川論文、井上文則「2.ローマ帝国衰亡論の現在」、「新しいローマ帝国衰亡論(2)――その問題点」による。↩

※7 南川論文、井上文則「2.ローマ帝国衰亡論の現在」、「新しいローマ帝国衰亡論(2)――その問題点」(ethnogenesis)による。↩

※8 南川論文、加納修「3.(1)西欧中世初期史研究者から見たローマ帝国衰亡論」による。↩

※9 南川論文、加納修「3.(1)西欧中世初期史研究者から見たローマ帝国衰亡論」による。↩

※10 児島秀樹「経済史から見た法制度の変遷:古代後期(131年~760年)」『明星大学経済学研究紀要』第54巻第2号(2023年、以下「児島論文」)、「<3.3.2>第2紀(341~550年):ゲルマン民族の侵攻」による。↩

※11 児島論文、「<3.3.2>第2紀(341~550年):ゲルマン民族の侵攻」による。↩

※12 児島論文、「<3.3.2>第2紀(341~550年):ゲルマン民族の侵攻」による。↩

※13 児島論文、「<3.3.3>第3紀(551~760年):ゲルマン系国家とフランク王国」による。↩

※14 児島論文、「<3.3.3>第3紀(551~760年):ゲルマン系国家とフランク王国」による。↩

※15 児島論文、「<3.3.3>第3紀(551~760年):ゲルマン系国家とフランク王国」による。↩

※16 橋本龍幸「〈翻訳・訳注〉『フランク史書』Liber Historiae Francorum」『人間文化』第27号(愛知学院大学人間文化研究所、2012年、以下「橋本論文」)、訳者序文による。↩

※17 橋本論文、第42章~第53章の記述による。↩

※18 橋本論文、第48章訳註(4)による。↩

※19 橋本論文、第43章による。↩

※20 橋本論文、訳者序文および第53章による。↩