こないだまで受験生の世界史を教えてたんですよね。もともと世界史は好きなんですけど、さすがに10年以上前に勉強してたことは忘れてるなあと思って、山川の教科書や資料集や用語集を買って勉強したり、コテンラジオ(歴史を面白く深掘りするポッドキャスト)を聞いたりして勉強してたのです。今は受け持ちで世界史を教えてる子はいないんですけど、引き続き勉強してます。好きだしね、世界史。

で、なんか興味を持ったテーマについて掘り下げてみようと思いまして。今回やりたいのは「華夷思想」。中国を中心とした世界秩序の考え方で、東アジア史を理解する上でキーになる概念なんですけど、これが意外と奥深い。

基本的にはだらずなんですけど、たまにはちゃんとやるのよ。論文3本読みました。文献の選択とか読みやすくするための処理とかは全部Claude(AI)にやらせたけどな。考えはちゃんと自分の考えです。まとめさせてるけど笑

華夷思想ってそもそも何?

華夷思想というのを一言でいうと、「中華が世界の中心で、周辺は文明の及んでいない野蛮な連中」という自他認識のことだ。

ただここで面白いのが、最初からそういう固定した区分けではなかったということ。桂島論文によれば、華夷思想における「華」と「夷」の区別は、地形や血統ではなく「礼・文(礼儀や文化)」の有無によって決まるものだった。礼を身につければ夷でも華になれるし、逆に礼を失えば華でも夷に落ちる。江戸時代の儒学者・荻生徂徠おぎゅうそらい(おぎゅうそらい)はこれを次のように表現している。

「夷、夏に進めば則ちこれを夏にし、夏、夷に退けば則ちこれを夷にすること、以て見るべし」

荻生徂徠『諼園十筆けんえんじっぴつ』、桂島論文より引用※1

つまり最初の華夷思想は、意外と柔軟な思想だった。

これが変化するのが明清時代あたり。明は漢族の王朝だが、清は女真族(満州族)という異民族が中国を支配した王朝だ。中国史ではこれを「華夷変態かいへんたい」と呼ぶ。夷が華の地を支配するという逆転現象が起きたとき、徳川日本の知識人たちは「じゃあ本当の中華はどこにあるのか」という問いに直面した。そこから「日本こそが中華だ」という日本型華夷思想が生まれていく※2

もう一つ面白い視点を濱下論文から借りると、華夷秩序というのはそもそも「境界線」ではなく「グラデーション」の構造をしている。皇帝を中心として、その威光が次第に外側に同心円的に拡がっていき、中央から離れるにしたがって統治は次第に緩やかになっていく。中央→地方→土司どし土官どかん藩部はんぶ朝貢ちょうこう国→互市ごし国、という具合に※3

これは後でも出てくるが、ここがウェストファリア体制(「ここからここまでが自国、向こうは他国」という明確な境界線)と根本的に違うところだ。

中国から見た世界——天朝体制という仕組み

この同心円構造を支えていたのが「天朝体制」という概念だ。

檀上論文によれば、天朝体制とは「朝貢と互市との上位の概念として措定された方法概念」だという※4。少しわかりにくいので噛み砕くと——中国の皇帝(天子)は儒教の礼治れいち徳治とくちによって世界全体を包む統治者であり、その秩序の中に周辺国との関係がすべて位置づけられていた、ということだ。

中国と周辺国の関係には大きく三種類あった。朝貢(国交面での君臣関係)、盟約(遊牧民など強大な勢力との擬制ぎせい的家族関係——漢と匈奴が「兄弟」になったやつがこれだ)、そして互市(民間での交易)。この三つはそれぞれ原理が異なるんだけど、天朝体制という枠組みの中では全部「天子の徳に引き寄せられてやってきた」という同じ図式で解釈されていた※5

ここで一つ面白い視点を出したい。

朝貢する側の立場からすると、朝貢と互市は全然別物だ。正式な外交使節を送るのが朝貢、商売するのが互市。実際、濱下論文によれば朝貢ルートへの参加資格がないため漂流を装った密貿易船が横行していたくらい、両者の区別は現場レベルでは明確だった※6。でも天朝側から見ると、どちらも「夷狄いてきが天子の徳を慕ってやってきた」という同じ話になる。

ズボンみたいなもんで、上から見たら穴は一つ、下から見たら穴は二つ。同じ構造でも視点で全然違って見える。

面白いのは、檀上論文でいう「明だけが特殊だった」という指摘だ。朝貢と互市を明確に切り分け、対外関係を朝貢制度に一元化したのは歴代王朝の中で明だけ。宋でも元でも清でも、朝貢と互市は普通に並存していた※7。なんで明はそんなことをしたのか。朱元璋しゅげんしょう(明の初代皇帝)が乞食出身で秩序と管理へのこだわりが強かったという個人的な要因と、モンゴル(元)支配への反動で漢民族の純粋性を強調したかったという政治的要因の両方が絡んでいると言われている。ある意味では日本の鎖国と似た発想かもしれない——ただ破綻した理由は全然違いそうだが。

日本は華夷思想の外にいたのか?

「日本は鎖国していたから中国の影響を受けなかった」というイメージがあるかもしれない。でも実態はかなり違う。

濱下論文によれば、鎖国期の日本も実質的には華夷秩序の中に組み込まれていた。琉球を通じた日中貿易、長崎とマカオの貿易、対馬・朝鮮半島を通じた対中国貿易——これらは全部、華夷秩序のネットワークの中で動いていた。徳川幕府は朝鮮通信使の受け入れや琉球の処遇において、華夷秩序の格式を遵守していた。つまり幕府は華夷秩序を「利用して」いたわけだ※8

一方で、日本が中国と大きく違うのは「組み込まれている自覚がなかった」かもしれないという点だ。

桂島論文を読むと、江戸時代の日本の知識人は確かに華夷思想を受容していたが、本居宣長もとおりのりながあたりから「言語の異なり」を根拠に「皇国」という別の自己像を打ち立て始める。「皇国は内也。もろこしは外」(本居宣長『馭戎慨言ぎょじゅうがいげん』)という言葉はその典型だ※9。海で隔てられているという地理的条件も大きいが、それ以上に「中華文明圏に完全に取り込まれたことがなかった」という距離感が、独自の変容を可能にしたんじゃないか。

濱下論文には「日本は選択的に中国から様々なものを選び採った」という表現がある※10。ただここで一つ疑問が湧く——「選択的受容」という言い方自体、すでにウェストファリア的な「自国/他国」という境界線の感覚を前提にしてないか?天朝体制的な発想では、単純に「遠いから関わりが緩やかだった」というグラデーションの話に過ぎないかもしれない。

西洋の衝撃と日中の明暗

ここが一番面白いところだと思う。

桂島論文によれば、18世紀末から19世紀初頭にかけて、ロシアの蝦夷地えぞち接近が日本の知識人に決定的な衝撃を与えた。それまで「夷狄は教化すれば取り込める」という華夷思想の枠組みで世界を見ていたのに、ロシアというまったく異質な論理を持つ存在の出現によって、その枠組みが機能しなくなっていく※11

面白いのが蝦夷地(北海道)をめぐる議論だ。当初、アイヌは「夷」として日本の華夷思想の外に置かれていた。でもロシアが蝦夷地に接近してくると、「アイヌはもともと倭人と同じ人種だ」という同祖論どうそろんが登場し、「風俗教化ふうぞくきょうか」によってアイヌを日本に取り込もうという議論が出てくる。桂島論文では最上徳内もがみとくないの言葉として「東蝦夷地の島すべて二十一島、大古より松前所在島の属島にして、日本人種類の蝦夷人住居すれば、則ち日本の境内に疑なし」という記述が紹介されている※12。これ、ある意味で華夷思想の日本版スモールバージョンだ。

さて中国の方はどうだったか。

檀上論文によれば、清朝は西洋列強が登場してもなお「互市国」という枠を作って、彼らを天朝体制の中に位置づけようとした。イギリスもフランスも、天朝の恩恵を受けるべき「遠人」として処理しようとしたわけだ※13。これは当時の感覚としては合理的な判断だったかもしれないが、西洋はウェストファリア体制という全く別の論理で動いていた。「天子の徳を慕ってやってきた夷狄」ではなく、「対等な主権国家として条約を結びにきた相手」として迫ってきたわけで、枠組みが根本的に違う。

対して日本は、ロシアとの蝦夷地をめぐる衝突を経て、少なくとも一部の知識人は「これまでの枠組みでは対処できない」という認識を持ち始めた。桂島論文はこの変容について、「蝦夷地論やその彼方に見据えられたロシア論は、もはや華夷思想を解体の最終局面に追いやっていた」と表現している※14

まとめると——中国は華夷思想のまま西洋を受け入れようとした。日本は華夷思想もウェストファリア体制も受け入れた上でうまく立ち回った。この差がどこから来るかは一言では言えないけど、「海で隔てられていたこと」「中華文明圏に完全に取り込まれたことがなかったこと」「ロシアという陸続きの脅威が先に来たこと」あたりが絡み合っている気がする。

現代へのつながり

じゃあこれは昔話かというと、そうでもない。

「一帯一路」も「中華民族の偉大な復興」も、構造的には天朝体制の延長線上に見える。中心から周辺へのグラデーション的な影響力の拡大、そして「みんな仲間(家族)」という感覚——これは檀上論文が指摘するように、天朝体制から「一歩も抜け出せていない」姿とも読める※15

一方で日本人が「白黒はっきりさせたがらない」「空気を読む」「他者の思想を変質させて受容するのが得意」といった特性も、もしかしたら中華思想のグラデーション的感覚が根っこにあるのかもしれない——というのは言い過ぎかもしれないけど、あながち外れてもいない気がする。

あと一つ。濱下論文に「明治日本は、西欧化すること自体が目的ではなく、それを手段としてアジアに再び参加することを試みようとした」という指摘がある※16。「脱亜入欧」——日本はアジアを捨てて西洋に追いついた、という史観——に対するなかなか面白いカウンターだ。日本の近代化を「西洋への憧れ」ではなく「アジアの秩序への再参入の手段」として読み直すと、また違う景色が見えてくる。

いろんなメタ認知のヒントが生まれてきましたね。多分考えるだけ考えて、何かに活かすわけでもないけど。いやどこかで役に立つかもね。


脚注

※1 荻生徂徠『諼園十筆』享保元(1716)年前後稿成。桂島宣弘かつしまのぶひろ「華夷思想の解体と自他認識の変容——一八世紀末期〜一九世紀初頭期を中心に——」(立命館大学、以下「桂島論文」)より。

※2 桂島論文、「一八世紀に入ると……日本中華主義を生みだし」の箇所による。

※3 濱下武志はまだたけし「華夷秩序と日本——18世紀〜19世紀の東アジア海域世界」(国立国会図書館『参考書誌研究』第45号、1995年、以下「濱下論文」)、朝貢・冊封さくほう体制の節による。

※4 檀上寛だんじょうひろし「明清時代の天朝体制と華夷秩序」(京都女子大学研究紀要、以下「檀上論文」)「はじめに」より。

※5 檀上論文、一章「天下と天朝」による。

※6 濱下論文、媽祖信仰圏の節による。「朝貢船の場合、初めから船の数や人数が決められていますから、その他の船はなかなか参加できません。そこで漂流というカテゴリーを利用して貿易を行うことになります」。

※7 檀上論文、三章「『天朝体制』論の可能性」による。「中国史上、対外関係を朝貢制度に一元化したのは、後にも先にも明をおいて他にはない」。

※8 濱下論文、朝貢・冊封体制の節および位階制度の節による。

※9 本居宣長『馭戎慨言』安永六(1777)年初稿成。桂島論文より。

※10 濱下論文、東アジアの海域の節による。「日本は、選択的に中国から様々なものを選び採った」。

※11 桂島論文、二章「後期水戸学と蝦夷地問題」および四章「変容する自他認識」による。

※12 最上徳内『蝦夷草紙』寛政二(1790)年稿成。桂島論文より。

※13 檀上論文、三章「『天朝体制』論の可能性」による。『嘉慶大清会典』における互市国分類の議論を参照。

※14 桂島論文、四章「変容する自他認識」より。

※15 檀上論文、おわりにの節による。

※16 濱下論文、開港場の時代の節より。


参考文献

【論文①】桂島宣弘「華夷思想の解体と自他認識の変容——一八世紀末期〜一九世紀初頭期を中心に——」立命館大学(全文無料公開)

【論文②】檀上寛「明清時代の天朝体制と華夷秩序」京都女子大学研究紀要(全文無料公開)

【論文③】濱下武志「華夷秩序と日本——18世紀〜19世紀の東アジア海域世界」『参考書誌研究』第45号、国立国会図書館、1995年(全文無料公開)

投稿者

だらず夫

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