どうもこんばんは。日曜日19時をだらず世界史の決まった更新時間にしようと考えている今日この頃です。そうなると、いつも1週間に3本の論文を読むってことですよね?いや、できんのかな笑

さて、今日のテーマに選んだのは十字軍。しばらく前から勉強したいなと思っていたテーマなんですが、ずっと聞いているコテンラジオも、そろそろ十字軍の回まで行けそうなので事前にちょっと調べておいてみようという魂胆です。

ただ、十字軍、色んな視点があって1回では終わりそうにないです。

諸悪の根源はClaudeです。←人のせいにしない。

でもまあ色んな視点から十字軍を考察してみようということで今回はまず宗教編。十字軍をそこに関わるいくつかの宗教の観点から見ていきましょう。

エルサレムってそもそも何?——三枚肉の聖地

「十字軍=キリスト教vsイスラームの戦い」というイメージがあると思う。でもそもそもの話として、なぜエルサレムがそこまで重要なのかを押さえておかないと、十字軍の話は半分しかわからない。

エルサレムはユダヤ教・キリスト教・イスラームの三宗教にとって聖地だ。臼杵陽うすきあきら「イスラーム的エルサレムの現在」(以下「臼杵論文」)はこれを「地層」という比喩で表現している。エルサレムとは「誰かが支配した場所」ではなく、時代ごとに異なる文明の層が積み重なった場所なのだという。三枚肉みたいなものだ——ユダヤ教の層、キリスト教の層、イスラームの層が、今もそれぞれ生きたまま重なっている。

では、なぜイスラームにとってエルサレムが聖地なのか。ムハンマドが生まれた場所はマッカ(メッカ)であって、エルサレムではない。ところがクルアーン第17章第1節に、アッラーがムハンマドをマッカのモスクからエルサレムのアル=アクサー・モスクまで夜の旅をさせ、そこから天に昇天させたという記述がある※1。「昇天した場所」としてエルサレムはイスラームの第三の聖地となったのである。さらに、イスラームの礼拝の方向(キブラ)は最初エルサレムに向けられており、624年頃にマッカに変更されるまでその状態が続いていた※2

この三枚肉の地に、7世紀以降ムスリムが支配者として君臨し、その後十字軍、オスマン帝国、イギリス委任統治、ヨルダン、そしてイスラエルと支配者が変わってきた。ただし重要なのは、支配者が変わっても各宗教の「地層」が消えたわけではないということだ。臼杵論文はこう指摘する——「イスラーム的エルサレムは依然として失われたままの状態が続いている」※3。支配されることと、聖地であることは、別の話なのである。

キリスト教の戦争観はどう変わったか

石津朋之いしづともゆき「宗教と戦争——十字軍と三〇年戦争を事例として」(以下「石津論文」)は、キリスト教の戦争観の変遷を「絶対平和主義→正戦論→聖戦論→無差別戦争観→国際法的正戦論」という流れで整理している。

原始キリスト教は絶対平和主義だった。軍隊での服務や兵役を拒否し、暴力を全否定する立場だ。これが4世紀以降に大きく転換する。キリスト教が313年にローマ帝国で公認され、380年に国教化されたからだ※4。ここで重要なのは、石津論文のこの指摘だ——「ある宗教の戦争観及び平和観とは、単なる聖典や教義の反映に留まるものではなく、外部環境とのいわば『妥協』によって形成されるのが常である」。

キリスト教は国教化によってローマ帝国という権力と結びつき、帝国の戦争を正当化する必要に迫られた。「キリスト教が変わった」というよりも「権力が道具として利用した」と見る方が正確かもしれない。

こうして生まれたのが正戦論——侵略の抑止など正当な理由があること、最終手段であること、非戦闘員を攻撃しないこと、などの条件を満たす戦争は「正しい」とする考え方だ。アウグスティヌスやトマス・アクィナスがその概念構築に参画しており、現代の国際法にも受け継がれている※5

そして正戦論は、異教徒に対しては聖戦論へと転化していく。「神は我々と共におられる」という信念の下で戦われる十字軍はその典型だ。ここで一つ疑問が湧く——華夷思想の「教化」とキリスト教の「布教」は似ているようで、実は根本的に違うのではないか。華夷思想は「礼を身につければ仲間」というグラデーション的な発想で、相手を「礼の有無で区別されるが、礼を身につければ仲間になれる存在」として見ている。一方のキリスト教的世界観は「我々が至高、異教徒は未開」という排外主義的な色彩が強い。もっとも、これをそう感じるのは自分が華夷思想の影響下にある日本人だからかもしれないが。

三〇年戦争後の1648年、ウェストファリア条約で国家主権の独立性が認められ、主権国家を超える上位の権威——つまりキリスト教による一元的権威——が否定された※6。ここで正戦論から無差別戦争観への移行が始まる。ただしこれをキリスト教の戦争観の変容と見るのは少し強引な気もする。むしろ「国家」というイデオロギーが登場したことで、宗教という正当化の装置が「国家の名の下に」という別の正当化に置き換えられたと見た方がしっくりくる。

十字軍は宗教戦争だったのか?

石津論文は十字軍の動機を①宗教的動機(エルサレムの解放・贖宥しょくゆう)と②世俗的動機(政治・経済)に分類し、「次第に後者に比重を移行させていった戦争」と整理している※7

第1回十字軍(1096〜99年)は最も宗教的動機が色濃く、エルサレム奪回に成功した。だがその際、イスラーム教徒だけでなくユダヤ教徒に対する残虐行為も行っている。宗教戦争という名目のはずが、見境がない。

第4回十字軍(1202〜04年)に至っては、同じキリスト教徒であるビザンツ帝国の首都コンスタンチノープルを略奪・占領した。宗教的建前などどこへやら、という話だ。この時期にヴェネチアやジェノヴァなどイタリア都市国家が輸送と補給で巨万の富を獲得した※8。結局のところ、宗教の皮を被った実利戦争だったのではないか。

では宗教は全く関係なかったかというと、そうでもない。石津論文のこの指摘が的を射ている——「宗教は戦争遂行上の目的である利害対立を隠匿し、安易に正当化できる装置として用いられてきた」。「神のために戦う」という共通の物語のもと、イスラームという外敵を設定することで集団の結束力を高めた——これが宗教をグループ意識の最大化ツールとして利用した構造だ。これが「宗教は戦争において受動的かつ能動的であるという両義性を有する」という石津の結論だ※9

一方、中田考なかたこう「十字軍とジハード」(以下「中田論文」)はイスラームと西欧の対立を本質的・絶対的なものとして捉える「十字軍パラダイム」を批判する※10。十字軍以前、ムハンマドはキリスト教国エチオピアに迫害された信徒を逃がしており、両者の関係は必ずしも敵対的ではなかった。イスラームによるシリア・エジプトの征服後も、強制改宗は行われず「平和的」なイスラーム化が進んだという。十字軍によってその関係が変わったのだ。

イスラームの戦争観——ジハードとは何か

ジハードの概念はムハンマド没後の征服戦争の時代に実践され、その後イスラーム法学の発展とともに体系化されていった——ただしその詳細な時期については筆者の勉強不足で把握しきれていない。ジハードとはアラビア語で「力を尽くすこと」を意味するが、イスラーム法学では「不信仰者との戦い、その撃退のために生命・財産・言論を捧げること」と定義される。中田論文によればジハードは「連帯義務」であり、共同体の誰かが果たせば他の者は免除される※11。また非戦闘員の殺害は禁じられ、婦女子・老人・病人・修道士・農民などの殺害は禁止される。

ここで石津論文のキリスト教的聖戦論と比べると、際立った違いが見える。キリスト教的聖戦論では「相手が悪い存在だから」という理由だけで戦いが正当化され、激烈化する傾向が強かった。一方イスラームのジハードには「非戦闘員を守る」「停戦協定を結べる」「庇護契約で異教徒を保護する」という具体的なルールがあり、実利重視の現実的な戦争観といえる。

そして第3回十字軍(1189〜92年)を機に、イスラーム側もこの戦いを「聖戦」と認識し始めた※12。逆説的だが、キリスト教が持ち込んだ「聖戦」という概念が、イスラームに渡ってしまったのではないか。約800年の時を超えて、同時多発テロなどの形で返り討ちに遭っているとも見えてしまう。

現代における問題の根源の一つは、1924年のカリフ制廃止にある。本来ジハードの宣戦布告はカリフ(イスラーム共同体の指導者)の大権だったが、カリフ制廃止以降その正統な宣言者が不在となった※13。これを利用して武装勢力が「聖戦」を自称するようになった。「イスラームが暴力的」なのではなく、「イスラームの名を借りた政治的暴力」というのが実態に近い。

華夷思想との比較——東西の「他者」の認識

論文3本を読んで一貫して感じたのは、西洋と東洋の「他者」に対する認識の根本的な違いだ。

華夷思想は「礼を身につければ仲間」というグラデーション的な発想で、他者を段階的に取り込もうとする親分肌の世界観だった(「だらず世界史 #1」参照)。一方、キリスト教的世界観は「我々が至高、異教徒は未開」という排外主義的な色彩が強く、石津論文が指摘する「オリエンタリズム」に通じる※14

ただし面白いのは、イスラームが選択的受容に長けていたという点だ。イスラーム世界はギリシア哲学・医学・数学を積極的に吸収・発展させ、十字軍を通じてそれがヨーロッパに逆輸入された。これがルネサンスの基礎になったというのは有名な話だ※15。中世キリスト教ヨーロッパが閉鎖的だったとすれば、イスラームはむしろ開放的で実利重視——どこか日本の選択的受容に似ていないか。

もっとも、こう感じるのは自分が華夷思想の影響下にある日本人だから、という留保は必要だ。西洋的な世界観から見れば、グラデーション的な「境界線のなさ」こそが異質に映るかもしれない。

現代へのつながり

十字軍は13世紀に終わった話ではない。

エルサレムをめぐる三枚肉の地層は現代まで続いており、1948年のイスラエル建国、1967年の第三次中東戦争による東エルサレム占領、そして今日のパレスチナ問題に直結している。臼杵論文が取り上げたナビー・ムーサー祭りは1967年以来現在まで禁止されたままだ※16。地層が踏み荒らされ続けている状態が今も続いている。

宗教戦争の皮を被った実利戦争という構造も変わっていない。現代中東の暴力は「イスラームが暴力的だから」ではなく、植民地支配が生み出した不安定な国家構造、パレスチナ問題の未解決、カリフ制廃止後の権威の空白、これらが絡み合った政治的暴力として見た方が正確だ。石津論文の言葉を借りれば、「宗教は戦争遂行上の目的である利害対立を隠匿し、安易に正当化できる装置として用いられてきた」——これは現代においても全く変わっていない。

政治、権力編に続く。


脚注

※1 臼杵陽「イスラーム的エルサレムの現在」(以下「臼杵論文」)、2節「クルアーンの中のエルサレム」による。クルアーン第17章第1節「夜の旅」参照。

※2 臼杵論文、2節「キブラ(礼拝の方向)としてのエルサレム」による。

※3 臼杵論文、「むすびにかえて」より。

※4 石津朋之「宗教と戦争——十字軍と三〇年戦争を事例として」(以下「石津論文」)、1章「キリスト教と戦争」による。

※5 石津論文、2章「『正戦』と『聖戦』を考える」による。

※6 石津論文、2章「正戦論から無差別戦争観へ」による。

※7 石津論文、3章「十字軍の目的の分類」による。

※8 石津論文、3章「十字軍の諸相」による。

※9 石津論文、「おわりに」より。

※10 中田考「十字軍とジハード」(以下「中田論文」)、「はじめに——『十字軍パラダイム』について」より。

※11 中田論文、「ジハードとは何か——イスラーム法学の定義」による。

※12 石津論文、3章「十字軍の諸相」による。「この時期になるとキリスト教徒が行った多数の残虐行為に対してイスラム教徒もまた、この戦いを『聖戦』と認識し始めることになる」。

※13 中田論文、「イスラーム世界の拡大とジハード」による。

※14 石津論文、2章「『正戦』と『聖戦』のあいだ」による。

※15 石津論文、3章「十字軍がもたらしたもの」による。

※16 臼杵論文、「むすびにかえて」による。


参考文献

【論文①】石津朋之「宗教と戦争——十字軍と三〇年戦争を事例として」『戦史研究年報』第23号、防衛省防衛研究所(2020年)(全文無料公開)

【論文②】中田考「十字軍とジハード」『京都ユダヤ思想』第8号(全文無料公開)

【論文③】臼杵陽「イスラーム的エルサレムの現在」『ユダヤ・イスラエル研究』第34号(2020年)(全文無料公開)