実は書き溜めで6/28更新予定のものを6/16に書いてます。最近、めちゃくちゃ論文読んでて、大学生に戻った気分です。いや、大学生のときでもこんな真面目に読んでなかったかもしれない笑

さて、十字軍編第2回は政治と権力の話。今も宗教と政治は切っても切れない関係に――おっとあぶない、誰か来たようです。十字軍とはどういう思惑で実行されたのか、論文のボリュームもそこそこあって、過去3回の中で個人的には一番おもしろい回だと思ってます。ただ出来事の把握ではなく、そこにどういう人の考えがあるのか、現代にどのようにつながってくるのか、メタ視点も織り交ぜつつ、政治・権力編行ってみましょう。

叙任権闘争——十字軍の「前夜」

十字軍を理解するための政治的文脈として、その直前に起きた「叙任権闘争じょにんけんとうそう」を押さえておきたい。

「叙任権」とは、司教や修道院長などの聖職者を誰が任命するかという権限のことだ。今の感覚では「宗教の人事は宗教側が決める」と思うかもしれないが、中世ヨーロッパではそうではなかった。10世紀後半から11世紀前半にかけては皇帝に力が傾いており、教皇はすべて帝国本土出身者が就任するほどだった※1。皇帝が有力な聖職者を自分の都合で任命し、教会の人事を支配するのが当たり前の時代だったのだ。

これに異を唱えたのがローマ教皇グレゴリウス7世だ。1059年に枢機卿団による教皇選出方法が確立され、クリュニーくりゅにー修道院を拠点とした改革派が教皇座を握ると、「聖職者の任命は教皇が行うべきであり、俗人が介入するな」という改革路線が本格化した。これに猛反発したのが神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世である。

1076年1月、ハインリヒ4世はヴォルムスに諸侯を招集し、教皇の廃位を決議した。これは単なる権力の乱用ではなく、それまでの「皇帝が教皇を任免できる」という長い慣習の延長線上にあった——コンスタンティウスこんすたんてぃうす2世の時代(355年)から積み重なってきた先例が、皇帝の行為を「合法」に見せていたのだ※2

これを聞いたグレゴリウス7世は同年2月、対抗措置として皇帝を破門した。破門された者と交流した者も連帯して制裁を受けるというルールがあったため、諸侯たちは皇帝から次々に離反した。追い詰められたハインリヒ4世は1077年1月、カノッサ城で雪の中3日間立ち続けて赦免を乞うた——「カノッサの屈辱」である※3

しかし物語はここで終わらない。軍事的優位を取り戻したハインリヒ4世は1080年に2度目の破門を受けたが今度は全く動じず、対立教皇を擁立してローマに進軍し、1084年には帝冠を受け取った。グレゴリウス7世は翌年、失意のうちにサレルノで没した※4

なぜ1回目の破門は成功し、2回目は失敗したのか。答えはシンプルで、ドイツ国内の政治的状況の違いだ。1回目は諸侯と対立していたが、2回目は軍事的勝利を収め諸侯を抑えていた。「神の権威」のはずの破門が、世俗の政治状況次第で有効だったり無効だったりする。

ここで一つ、日本との比較が面白い。ヨーロッパでは皇帝と教皇が互いを廃位しようとしたが、日本では天皇が廃位されることはなかった。天皇は歴史の転換点でも「利用するされる」という関係の中で存続し続けた——足利義満が太政大臣になっても、明治維新で薩長が担いでも、天皇という権威は消えなかった。「権威と権力を分離する」という構造が日本では比較的安定して機能したのに対して、ヨーロッパでは教皇と皇帝という二つの権威が同じ空間で激突し続けたのだ※5

教皇権と十字軍——「神の名を使った政治」

叙任権闘争を乗り越えたウルバヌスうるばぬす2世は、1095年3月、ピアチェンザ教会会議で改革路線を再確認したのと前後して、ある決断をした。「十字軍」の提唱である。

同年11月27日、クレルモン公会議でウルバヌス2世は群衆に向かって演説した。東方キリスト教徒の援助と聖地エルサレムの解放のため、騎士軍団を編成して遠征せよと訴え、参加者には全免償(罪の全面的な赦し)を約束した。演説の途中で「神がこれを望んでおられる」(Deus lo volt)という声が上がり、これが十字軍の鬨の声となったという※6

この呼びかけの背景にあるものを考えてみてほしい。叙任権闘争で教皇権はある程度強化されたとはいえ、皇帝・諸侯との対立は続いていた。十字軍というプロジェクトは「共通の外敵を設定することでキリスト教世界の内部を統合する」という政治的機能を果たした——古今東西変わらない政治の常套手段だ※7

しかもこの十字軍の呼びかけは、ビザンツ帝国皇帝アレクシオス1世からの援軍要請がきっかけだった。セルジュク・トルコに圧迫されたビザンツ帝国が西方に助けを求めたのだ。しかし1099年にエルサレム奪回に成功した後、その地域はビザンツ帝国に返還されず、複数の封建領土に分割されてしまった※8。援助を求めた側が、気づいたら自分の領土を切り取られていた形だ。

その後、第4回十字軍(1202〜04年)ではついにビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルが略奪され、ラテン帝国が建国された。同じキリスト教徒(カトリック)が、同じキリスト教徒(東方正教会)の帝国を攻撃したのである。この遠征ではヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサなどイタリア都市国家が輸送と補給を担い、巨万の富を獲得した※9。宗教の建前の裏で、経済的利害が動いていたことは想像に難くない。

「神がこれを望んでおられる」は本当だったのか。民間レベルでは純粋な信仰から参加した人もいただろう。しかし客観的に見ると、十字軍はキリスト教の政治利用そのものだ。

十字軍の「変容」——宗教から利権へ

十字軍は回を重ねるごとに変容していく。その変容を一言で表すなら「宗教から利権へ」だ。

最初の大きな転換点は第4ラテラノ公会議(1215年)だ。第4回十字軍がコンスタンティノープルを略奪するという体たらくに終わったことへの総括として、興味深い解釈が示された——「十字軍が失敗したのは信徒全体が罪深いからだ。だから遠征前にまず贖罪せよ」というものだ※10。これによって「贖罪しょくざいのための十字軍」から「十字軍のための贖罪」へと両者の関係が逆転した。

同時に「十字軍宣誓代償制」が導入された。実際に参加しなくても、お金を払えば参加者と同等の贖罪価値が得られるという制度だ※11。これが後の贖宥状しょくゆうじょうの直接の原点となる。「お金で罪が免除される」という発想はここから始まった。

その後の十字軍は、資金調達システムの整備と「教皇軍」の形成に向かっていく。14世紀に教皇庁が初めてガレー船を投入し、15世紀には枢機卿が直接軍勢を率いて戦場に立つようになった。十字軍は「精神的な呼びかけ」から「教皇直営の軍事組織」へと変貌したのだ。

そして1488年頃、ある発明が十字軍の姿をさらに変えた——活版印刷による贖宥状の大量発行である。「十字軍遠征の資金を集めるための贖宥状」がヨーロッパ中に出回るようになった。活版印刷という新技術が宗教を変えた瞬間だ※12。しかし「売り上げのほとんどは『十字軍』のための資金としてほとんど残らなかった」という※13

極めつきは「十字軍」が公会議の正式議題にすらならなくなったことだ。15世紀の公会議はシスマの終結・フス派の問題・東西教会合同問題で手いっぱいだった——キリスト教世界の内部問題の方が、はるかに重要だったのだ※14

正戦論の変遷——「正しい戦争」とは誰が決めるのか

十字軍を通じて発展した「正戦論」は、西洋の法思想を形成した重要な概念だ。

出発点はキケロ(紀元前106〜43年、キリスト誕生前の人物)だ。「争いに決着をつけるためには二つの手段がある。論議を尽くすか、武力を用いるか、である。前者は人間特有のものである。後者は獣のなすところである。したがって、後者に頼るのは前者が通用しない場合に限られねばならない」※15。戦争は「損なわれた権利を取り戻すため、または敵を退けるため」にのみ許されるとした。

しかし原始キリスト教はもともと絶対平和主義に近かった。「武器を平和の用具に改め、剣を打ち直して鋤とした」※16——これが本来の戦争観だった。それが変容するのが4世紀、ローマ帝国の国教化以降だ。フン族やゲルマン人の侵入という外敵の脅威が「戦争も愛の行為たりうる」という議論を生み出した。

アウグスティヌスは「悪い意図に起因する武力だけが悪」と論じ、「神によって命じられた戦争も疑いなく正しい」とも述べた※17。この論理自体は一定の合理性を持つが、問題は後世への影響だ。アウグスティヌス自身は「神の命令による戦いは過去の聖書世界に限られる」と考えており、「将来、教会の指導者が神の意志を代弁して侵略戦争を呼びかけるだろうとは予想していなかった」※18。ところがこれらの発言が文脈を離れて中世の教令集に入ったところで「一人歩き」をし始めた——発言が当初の意図を外れてプロパガンダに使われる構造は、現代でも変わらない。

トマス・アクィナスは正戦の三条件を整理した——①君主の権威、②正当な事由、③正しい意図。これは今日の国際法にも受け継がれている※19

「正しい戦争」の定義が拡大していく中で「待てよ」と声を上げたのが16世紀のヴィトリアとスアレスだ。スペインによる中南米征服を目の当たりにして「原住民の主権は?」という問いを立てた。スアレスは喝破した——「最高の王たちには全地球の不正をただす権限があるという主張は間違っており、あらゆる秩序や管轄区分を混乱させる。そのような権限は神からも理性からも導き出されない」※20。700年後の現代でも通じる言葉だ。

外敵設定が招いた内部瓦解

十字軍という「外敵設定」が最終的に何をもたらしたか。皮肉なことに、内部分裂だ。

遠征が失敗するたびに「信徒の罪深さ」が原因とされた。その言説が贖宥状の大量発行を促した。しかし「売り上げのほとんどは『十字軍』のための資金としてほとんど残らなかった」といい※21、内部の腐敗が可視化されていく。1517年、マルティン・ルターがその構造に怒りをぶつけた——「95カ条の論題」だ。きっかけは贖宥状の大量販売だった。外敵をつくって内部をまとめようとした十字軍が、逆に内部の腐敗を加速させ、最終的にキリスト教世界そのものを二つに割った。

一方で十字軍が残したものは「悪い遺産」だけではない。遠征中の「神の休戦」をめぐる法規定の整備、ピエール・デュボワの『聖地回復論』(1306年頃)が国際法の発展に与えた影響※22——そしてイスラーム世界の学問がヨーロッパに逆輸入されルネサンスの基礎になった流れは次回「交易・文化編」で詳しく扱う。

「正しい戦争とは誰が決めるのか」という問いは現代も解決されていない。2022年のロシアによるウクライナ侵攻では、ロシア正教会のトップが侵攻を支持した——アウグスティヌスの言葉が「一人歩き」した中世と同じ構造がここにある。

ヨハネ・パウロ2世は2000年3月、十字軍遠征やユダヤ人迫害をはじめ「過去千年の間にキリスト教徒が犯した罪」の赦しを乞う典礼儀式を執り行い、これを「記憶の浄化」と呼んだ。美しい言葉だ。しかしその22年後、同じ構造が繰り返されている。「過去への反省なしに未来への前進はありえない」——その言葉はまだ未完だ。

交易・文化編に続く


脚注

※1 ハンス・ユーゲン・マルクス「正しい戦争はあるか——歴史の答え」(以下「マルクス論文」)、2.1節による。

※2 酒井幹央「皇帝による教皇廃位と教皇による皇帝破門——叙任権闘争前期における法的論争」(以下「酒井論文」)、第2章(1)による。

※3 酒井論文、第1章(1)による。

※4 酒井論文、第1章(1)による。

※5 マルクス論文、2.1節による。

※6 マルクス論文、2.2節による。

※7 マルクス論文、2.2節による。

※8 マルクス論文、2.2節による。

※9 石津朋之「宗教と戦争——十字軍と三〇年戦争を事例として」3章「十字軍の諸相」による。

※10 櫻井康人「公会議決議録から見る『十字軍』の変容」(以下「櫻井論文」)、1節「第4ラテラノ公会議」による。

※11 同上。十字軍宣誓代償制はインノケンティウス3世の勅書Quia maiorによって提示され、Ad liberandamによって広く知られた。

※12 櫻井論文、3節による。活版印刷による贖宥状の大量発行は1488年頃に始まった。

※13 同上。

※14 櫻井論文、2節による。

※15 マルクス論文、1.1節、キケロ『義務について』より。

※16 マルクス論文、1.2節、ユスティーノス『トリュフォンとの対話』より。

※17 マルクス論文、1.3節、アウグスティヌス『ヘプタテウクスの問題』より。

※18 マルクス論文、1.3節による。

※19 マルクス論文、2.3節、トマス・アクィナス『神学大全』第2部2第40問題第1項より。

※20 マルクス論文、3.2節、スアレス『戦争について』より。

※21 櫻井論文、3節による。

※22 マルクス論文、2.2節による。


参考文献

【論文①】櫻井康人「公会議決議録から見る『十字軍』の変容」『東北学院大学論集 歴史と文化』第60号(2019年)(全文無料公開)

【論文②】酒井幹央「皇帝による教皇廃位と教皇による皇帝破門——叙任権闘争前期における法的論争」『学生法政論集』第19号、九州大学法学部(2025年)(全文無料公開)

【論文③】ハンス・ユーゲン・マルクス「正しい戦争はあるか——歴史の答え」『南山神学』第27号(2004年)(全文無料公開)

投稿者

だらず夫

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