十字軍編第3回目の今回は視点をぐっと東西に広げて交易・文化の視点から見ていきましょう。だんだんと読む文献の分量が増え、難易度が上がってきて、めちゃくちゃコスパ悪い気がしてきているんですけどきっと気のせいですよね。

論文を読んでいて思ったのですが、ほんとに世界は繋がっているなぁと。まさに風が吹けば桶屋がもうかるみたいな感じ。高校の世界史でも一大イベントとして扱う十字軍ですが、今回3本の論文を読んで、新たな視点を得ることができました。

それでは交易・文化編いってみましょう。

① 十字軍を支えた商人たち

第1回十字軍(1096年)が始まる以前から、ヴェネツィア・アマルフィといったイタリアの商業都市は東地中海での交易活動に従事していた。ジェノヴァやピサは第1回十字軍に直接参加し、兵員や物資の輸送を担うことで十字軍国家の建設に大きく貢献した※1

その見返りは甘くなかった——いや、甘すぎた。ジェノヴァはアンティオキアやアッコンに土地・区画・港湾収益を次々と獲得していく。ヴェネツィアは1123年のティール占領への軍事貢献の見返りに「パクトゥム・グァルムンディ(グァルムンドゥスの協約)」を締結し、関税免除・裁判権・ティールの3分の1の区画という破格の特権を手にした。

ここで重要なのは、エルサレム王国側はこれらの特権付与を単なるビジネス契約とは見ていなかった、という点だ。王国の支配者たちは商業都市への特権・財産の付与を「封(フェーフ)」として捉えていた。

封建制度と聞いてピンとくる日本人も多いだろう。鎌倉幕府における「御恩と奉公」の関係——将軍が御家人に土地を与える代わりに、御家人は「いざ鎌倉」の時に馳せ参じる——がその典型だ。ヨーロッパの封建制度も構造は似ていて、「主君が土地(封)を与え、家臣が軍事奉仕をする」という双務的な契約関係が基本にある。

つまりエルサレム王国の支配者たちは商業都市に特権を与えながら、こう考えていた。「これは封だ。いざとなったらお前たちも戦え」と。特権を手にした商業都市は、気づけばエルサレム王国という運命共同体の一員に組み込まれていたのである。

② 運命共同体の誕生

ヴェネツィアがティールの3分の1を手に入れたとき、単に「交易拠点を得た」以上のことが起きていた。ティールの町は国王とヴェネツィアとで分割統治される形になったのだ。

商業都市側の本音はシンプルだった。「特権をもらって儲けたい」。それだけである。一方、エルサレム王国側の意図はこうだ。「特権を与える代わりに、いざとなったら一緒に戦え」。同じ取引を前にして、両者の認識は最初からすれ違っていた。

このすれ違いが露わになったのが1183年である。イスラーム側の英雄・サラディン——正式名称はサラーフッディーン・ユースフ・イブン・アイユーブ、アイユーブ朝の初代スルタンで、後に第3回十字軍でリチャード1世と激闘を繰り広げる人物——による攻撃が激化する中、エルサレム王国は緊急召集をかけた。税は「言語・民族・信仰・男女に関わらず」全住民に課され、沿岸部に滞在していたピサ人・ジェノヴァ人・ヴェネツィア人・ロンバルディア人たちも否応なしに戦場へ駆り出された。記録にはこうある——「唐突に沿岸部から召集されたピサ人・ジェノヴァ人・ヴェネツィア人・ロンバルディア人たちが、大いに苦しんだ」※2

儲けようと思って来たら、いつの間にか戦争に巻き込まれていた。商業都市たちは気づけば、エルサレム王国という運命共同体の一員に組み込まれていたのである。

③ アイデンティティの板挟み

運命共同体に組み込まれた商業都市の市民たちの中には、十字軍国家に定住して封建領主となった者たちもいた。彼らが直面したのは、単純な利害の対立ではなく、もっと根深い問題——アイデンティティの板挟みだった。

ジェノヴァの名門エンブリアコ家は、第1回十字軍への貢献の見返りとしてレバノン北部のジブレという土地の領主権を与えられた。何世代にもわたってジブレで生まれ、結婚し、子を育て、土地を守った。そうなると当然、「ジェノヴァ人」より「ジブレの領主」という意識が強くなっていく。しかしジェノヴァ本国は「お前たちは我々の代理人だ」と要求し続ける。

聖サバス戦争(1256〜77年)でのエンブリアコ家のエピソードはその象徴だ。アンティオキア侯に対ジェノヴァ攻撃軍を率いるよう命じられたベルトランド2世は「自身も彼らと同じ国の出身であるために」と容赦を願い出た。侯に強引に出陣させられたベルトランドは、槍を鞍の後ろに置いて敵意のないことを示した上で「我こそはジブレのベルトランドなり」と叫ぶことで戦闘を回避した※3

ピサ人のボトロン領主プレバーノも同様だった。トリポリ伯の封建家臣として生きた彼は「ピサ人から見ればフランク人、フランク人から見ればピサ人」という宙ぶらりんな存在だった。14世紀初頭に作られた貴族名鑑『海の向こうの系譜』は、そんな彼を最終的に「ピサ人(Pizan)」として刻んでいる。本人がどう思っていたかはわからないが、後世の人間はピサ人と判断したわけだ。

母国のアイデンティティか、定住した土地のアイデンティティか——どちらを選んでも何かを失う。そんな葛藤を抱えながら、彼らは十字軍国家という異郷の地で生きていたのである。

④ 運命共同体の崩壊

商業都市と十字軍国家の「運命共同体」は、永続しなかった。

ロンバルディア戦争(1226〜50年頃)——神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と北イタリアの都市同盟が激突したヨーロッパ本土の戦争——の余波は、遠く十字軍国家にまで及んだ。ジェノヴァとピサは皇帝派、ヴェネツィアは反皇帝派に分かれて対立し、十字軍国家の内部にヨーロッパ本土の政治対立が持ち込まれた。「聖地を守る運命共同体」より「本国の利害」が優先されるようになっていったのだ※4

そもそもヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサは同じ地中海の商業都市として、同じ航路・同じ港・同じ商品をめぐって争うライバル関係にあった。平時でも激しく競合していた三者が、十字軍国家という同じ土俵に乗り込んできたのだから、衝突は時間の問題だったともいえる。

決定打となったのが1256年に勃発した聖サバス戦争である。アッコンにある聖サバス教会の所有権をめぐるヴェネツィアとジェノヴァの対立が、十字軍国家を二分する10年以上の内戦に発展した。その間もイスラーム勢力の圧力は続いていた。外敵に対して団結すべき時に、内輪揉めで消耗していたのである。

そこに追い打ちをかけたのがシャルル1世・ダンジューだ。フランス王ルイ9世の弟であるシャルルは1277年にエルサレム国王位を「購入」し、十字軍国家に乗り込んできた。しかし彼の代理人は商業都市の特権を一切承認しなかった。これまで築いてきた運命共同体の論理が、外部から来た権力者によって強制シャットダウンされたのだ。

エルサレム王国は最終的に1291年のアッコン陥落をもって滅亡する。運命共同体は、最後まで一枚岩になれなかった。

⑤ 知識の逆輸入——翻訳運動

十字軍がもたらしたのは戦乱と交易だけではなかった。知識もまた、東から西へと流れていた。

7世紀のイスラーム拡大期、アラブ人はアレクサンドリアやシリアなどギリシア文化圏を征服した。そこに残されていたギリシア語の写本や学者たちをそのまま取り込み、アッバース朝のカリフたちはバグダードに「知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)」という翻訳・研究機関を設立した。アリストテレスの自然学・論理学・形而上学、ユークリッドの幾何学、プトレマイオスの天文学——古代ギリシアの知識体系がアラビア語に翻訳され、さらにイスラームの学者たちによって独自に発展していった。イスラームが古代ギリシアの知識を積極的に取り込んだのは、単なる好奇心ではない。商業と行政を支える実用的な知識として、数学・天文学・医学が切実に必要とされていたからだ※5

一方の西欧はといえば、ローマ帝国崩壊後の混乱でギリシア語を読める人材が激減し、写本も散逸していた。アリストテレスの主要著作のほとんどは西欧には伝わっていなかったのである。

この状況を変えたのが12世紀の翻訳運動だ。舞台となったのは二つの「異文化の接触点」——スペインのトレドとイタリアのシチリア島である。トレドはイスラーム・ラテン・ヘブライ語の三文化が共存した都市で、アラビア語からラテン語への翻訳が大規模に行われた。シチリアはノルマン人支配下でイスラーム・ビザンツ・ラテンの三文化が交差した翻訳の拠点だった。

十字軍によってヨーロッパ人がイスラーム世界と接触したことは、この知識の流通をさらに加速させた。何世紀もかけてイスラーム世界で保存・発展してきた古代ギリシアの知識が、ラテン語に翻訳されて西欧世界に逆輸入されていったのである。

⑥ 12世紀ルネサンスとは何だったのか

こうして西欧に流れ込んだ知識は、ヨーロッパの知的世界を大きく揺さぶった。後にこの時代の知的変革は「12世紀ルネサンス」と呼ばれるようになる。

ただし注意が必要だ。「ルネサンス」という言葉から連想される14〜15世紀のイタリア・ルネサンスとは、似て非なる現象である。イタリア・ルネサンスの知識人たちは古代を「断絶した過去」として意識的に取り戻そうとした——「再生(ルネサンス)」という言葉はまさにそのニュアンスだ。

一方、12世紀の知識人たちには古代との断絶の意識がほとんどなかった。彼らにとって古代ローマは「遠い過去」ではなく「自分たちが地続きで繋がっている土台」だった。ゆえに彼らがやろうとしたのは「再生」ではなく「刷新(renovatioレノワティオ)」——すでにある土台を若返らせることだった※6

この時代を象徴する言葉がある。「巨人の肩に乗った小人」。12世紀の哲学者シャルトルのベルナールが語ったとされるこの比喩は、「我々は古代の巨人たちの肩の上に立っているから、彼らより遠くを見渡せる」という意味だ。古代との断絶ではなく連続性の意識——これが12世紀ルネサンスの本質である。

そしてこの知的変革は、13世紀のスコラ学の完成へとつながっていく。「理性によって信仰を基礎づける」というスコラ学の試みは、アリストテレスの論理学とキリスト教神学を融合させようとするものだった。皮肉なことに、その訓練を受けた知識人たちが後に「現在の教会は聖書の教えと合っているのか」と問い始め、宗教改革の種を蒔くことになる。知識の逆輸入は、ヨーロッパ世界を静かに、しかし確実に変えていったのである。

⑦ 東から見た十字軍

ここで視点を大きく東に移したい。十字軍を「ヨーロッパの出来事」として見るのではなく、東アジアの視点から眺めてみると、まったく異なる景色が見えてくる。

1071年(煕寧きねい4年)、宋の神宗の朝廷に見慣れない使節が海路から訪れた。セルジューク朝のスルタンが送り込んだ使者だった。宋の史書はこれを「始めて通ぜしなり」——初めての国交と記録している。その10年後の元豊げんぽう4年(1081年)には、東ローマ帝国からも陸路で使節がやってきた。東ローマ皇帝ミハエル7世——ローマ法王に十字軍の援助を求めたあの皇帝——が送り込んだ使者で、こちらは「900余年ぶりの国交」だった。宋の記録官はその史実——紀元166年に後漢へ使節を送った大秦だいしん王安敦(マルクス・アウレリウス・アントニヌス)の記録——を参照して「あの大秦だいしん国の後継だ」と識認した——中華の記録文化の蓄積の凄みを感じる話だ※7

なぜ両国はわざわざ遠く中国まで使節を送ったのか。答えはシンプルだ。セルジューク朝と東ローマ帝国は互いに激しく対立しており、強大な中国との友好関係を維持することで「背後の安全」を確保しようとしたのである。敵の敵は味方——そんな外交的思惑が、中国の史書に静かに記録されていた。

これを可能にしたのは、この時代の東西交通の充実だった。宋代の中国では絹・陶器・金属地金が東西間を行き交い、ウイグル族やチベット族の商人が莫大な富を蓄えていた。東西は「隔絶した別世界」ではなく、すでに緊密に結びついた一つの世界だったのである。そしてこの東西交通は、十字軍という戦乱の中で思わぬ形で新たなルートを開拓していくことになる。

⑧ 十字軍がモンゴルを生んだ

十字軍が戦われていた当時、古代から続く絹街道の西端——小アジアからエジプトにかけての地域——は戦場と化し、東西の交易路は軒並み封鎖状態に陥っていた。安全な陸路を求めたヨーロッパ商人たちは、思いきって遠く北方を迂回する新しいルートを開拓していった。コンスタンティノープルから黒海北岸を渡り、カスピ海の北をまわり、天山山脈の北に沿って東進し、内蒙古を経て遼の国都へ至る「北回り交通路」である※8

この新ルートの恩恵を最も受けたのが、ルート上の交差点に位置するサマルカンドだった。古代絹街道と北回り交通路、さらにインドへの通路が交わるこの都市は空前の繁栄を極め、彿菻ふつりん国(東ローマ帝国)や層檀そうだん国(セルジューク朝)との交易で栄えたフワリズム王朝がその富を背景に中央アジアの覇権を握った。

しかしこの繁栄が、思わぬ連鎖を引き起こす。

十字軍はセルジューク朝に莫大な人的消耗をもたらした。絶え間ない戦闘を続けるために、セルジューク朝は東方から次々と人員を補充し続けた。東から西へと人員が流れ続けると、東方には「真空地帯」が生まれる。そこへ東方の遊牧民族が西へ向かって進出していく——これがモンゴル民族興起の一因だった。

加えて、宋代中国の石炭製鉄技術の発展によって安価に大量生産された鉄が、じわじわと遊牧民族の間に流出していた。武器に改鋳された鉄は遊牧民族の戦闘力を飛躍的に高め、その中からチンギス・ハンが現れた。

モンゴルは蒙古地方を統一すると、まず西夏を臣属させて古代絹街道の一部を手に入れ、そのままサマルカンドへと進撃した。繁栄する交易都市は格好の標的だった。そして十字軍が開いた北回り交通路は、モンゴル軍のヨーロッパ遠征ルートそのものになった。

「十字軍がなければモンゴルの世界帝国はなかった」——言いすぎに聞こえるかもしれないが、東洋史の大家・宮崎市定が1963年に提示したこの視点は、世界がいかに複雑に絡み合っているかを鮮やかに示している※9

次回はイスラーム編に続く。


脚注

※1 櫻井康人「ヨーロッパ商業都市と十字軍国家」『東北学院大学論集 歴史と文化』第57号(2018年)、1節「ハッティーンの戦いまでの状況」による。(論文PDF

※2 櫻井論文、2節「ハッティーンの戦いからロンバルディア戦争終結までの状況」による。

※3 櫻井論文、4節「『封建家臣』となった者たち」による。

※4 櫻井論文、3節「ロンバルディア戦争終結以降の状況」による。

※5 甚野尚志「十二世紀ルネサンスの精神——『十二世紀ルネサンス』を真に再考するために」『西洋中世研究』第1号(2009年)、4節「『ローマの刷新』と連続性の意識」による。(論文DOI

※6 甚野論文、「おわりに」による。

※7 宮崎市定「十字軍の東方に及ぼした影響」『東方学』第7巻第3-4号(1963年)、1節「宋の神宗朝に届いた東西の使節」による。(論文PDF

※8 宮崎論文、4節「十字軍が開いた『北回り交通路』とモンゴルの大西征」による。

※9 宮崎論文、「むすび——世界史は常につながっている」による。


参考文献

【論文①】櫻井康人「ヨーロッパ商業都市と十字軍国家」『東北学院大学論集 歴史と文化』第57号(2018年)(全文無料公開)

【論文②】甚野尚志「十二世紀ルネサンスの精神——『十二世紀ルネサンス』を真に再考するために」『西洋中世研究』第1号(2009年)(全文無料公開)

【論文③】宮崎市定「十字軍の東方に及ぼした影響」『東方学』第7巻第3-4号(1963年)(全文無料公開)

投稿者

だらず夫

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